〜フンザへ〜 「いいか、フンザに行かずしてパキスタンに来たと言うなかれだ。フンザ is パキスタン、パキスタン is フンザなんだ!」 オレに夕食を奢ってくれながら安食堂でこう熱く語ったのは、ペシャワールの路上でたまたますれ違ったフンザ出身のパキスタン人・セイフさんであった。そして、この言葉こそがオレにフンザ行きを決意させ、そしてまた大いなる後悔を産むことになる運命のひと言であった。 ……3月の下旬から4月にかけて杏(あんず)の花が満開になり、日本人旅行者でどのホテルも満員になるというパキスタン屈指の観光地、フンザ。日本にいる時から、オレはフンザのことは知っていた。噂では、宮崎駿の映画「風の谷のナウシカ」の「風の谷」というのは、そのフンザをモデルにしたものだとも言われているらしい。 杏、そしてナウシカ。 普通の人だったら、やや興味を惹かれるという程度のことかもしれない。杏の花やナウシカの舞台は見たいけれど、わざわざパキスタンの外れの山奥まで行こうとは思わない、おそらくそんなふうに考えるのではなかろうか。 だが、オレはそうではない。 杏……、そして、ナウシカ。根本的に、どちらにも全く興味のカケラすら無い。 杏の花が満開だかなんだか知らんが、そもそもオレは花自体に関心が無い人間だ。まだまだ青春真っ只中、花より女子のお年頃なのである。たしかに杏といえば、杏さゆりの水着画像はパソコンの中に何枚も入っているし、スキットに上野あゆさんが出なくなった「100語でスタート!英会話」の2ndシーズンは杏さゆり見たさに毎日録画していたというのは事実だ。それは認める。もし杏の花ではなく杏さゆりが それに、風の谷のナウシカに関しては何度観てもストーリーが理解できない。何度観てもだ。コミック版ですら1冊目を読みきらないうちに投げ出した人間である。そもそも、藤子不二雄で育ったオレの理解レベルで対応するには宮崎駿の作品はどれも難しすぎるのだ。どの宮崎アニメを観ても、オレが次の日に思い出せるのは「なんだかでっかい怪獣みたいなのが出ていたなあ」ということだけなのである。今まで観た宮崎作品の中でオレがストーリーをちゃんと理解できたのは、ルパン三世だけだ(泣)。 だいたい、3月下旬から杏の花がって今は2月の中旬だ。おまけに、ごく最近まで豪雪の影響でフンザに至る道が塞がっており、ほんの1週間前にやっと通れるようになったという話である。 ……豪雪だって。豪雪。なあ、オレがどれだけ寒さを苦手としているかわかってるだろう? 「作者は寒さが苦手なんだ」って、オシム語録にも書いてあるだろうがっ!!! 昨シーズンの「ノーベル寒さ苦手で賞」も受賞してるんだよオレは!!! 寒いのはいい加減にしろよっ!!! オレが寒いところに行ったら、旅行記に「寒い」しか書かなくなるだろうがっ!!! ……だが、そんな雪山地獄のフンザになぜ行かねばならぬのか。 それは、常に流行にキャッチアップをするというオレの人生のスタイルを貫くためである。決して、「パキスタン is フンザ、フンザ is パキスタンだぜ!」とオレも誰かに偉そうに言ってみたいからというわけではない。ただ「ナウシカの舞台の町に行ったことあるんだよ」と言えば女の子ウケが良さそうだからという、それだけの純粋な理由なのである。いつもオレを無視している職場の女子などと話をするきっかけが掴めそうだからである。 まずペシャワールからラワールピンディーの町までバスで4時間。そして、そこからギルギットというフンザの基点となる町までバスで20時間。さらにそこから別の車に乗り換えて3時間。トータル27時間かけてどんどん北へ、山奥へ向かう。 ……。 あのなあ……バスでトータル27時間って……てめえら……。 全然辛くないよ♪ 余裕だよこんなの。景色を見ていればあっという間だし。 ……移動の時はいつも苦しい苦しいと書いておりそろそろ飽きられてきたような気がするので、ちょっと意表をついてみました。勢いが大事だからって、いつもいつも「!」マークをいっぱい並べて叫んでればいいってもんじゃありませんよ。それじゃあ進歩が無いですよ。 山岳地帯に入り込み、一度の急ブレーキでツルっとまっ逆さまのこんな道を行く。 町の景色から山の景色へ。そして山の景色から雪山の中へ。 いや〜、旅の醍醐味を感じさせる光景ですな。 ……。 寒い(号泣)。 ぎゃーーーーーーっ!!!!!!! うおっ!!!! 寒い〜〜〜〜(号泣)!!!!! ぎょわああ〜〜〜っっ!!!!(進歩が無い人間) フンザの中心地となっているカリマバードという町で乗り合いバスを降りると、雪山に囲まれたなんと美しい景色なんだ、ペシャワールの彼の言葉を信じてここまで来て本当によかったなどと思う間もなくオレは冷凍された。 こわわわ……手が……足が……。一瞬にして体が硬直したため、なんとか歩こうとしても自動的にブレイクダンスを練習中の人になる。まだまだ習い始めたばかりだというのに、後ろ向きで歩けばすぐさまムーンウォークの完成である。 寒い……寒い。寒いと言い続けるのが表現者として芸が無いというのなら、「暑い」の反対。ああ、「暑い」の反対。「暑い」の反対!! ギーガシャンという効果音を発して凍った首を回してみると、360度雪山である。そりゃあ風も冷たいわ。そりゃあオレも叫ぶわ。この村ではクール宅急便のサービスはいらないだろう。いらないというか、逆に好きなあの子に出したラブレターですら強制的にクール宅急便で送られることになる。ここでは冷凍の牛肉を購入して食べる前に台所に出しておいても、いつまでたっても自然解凍は望めない。 というか、こんなところで寒いギャグ(いろんな意味で)を考えている場合ではない。オレに必要なのは、部屋だ。もしここで宿が見つからずに野宿することになったら、1万年後に氷づけのオレがほぼ無傷の状態で発見され、学術研究に利用されることになるだろう。シベリアかよっ!!! コショーサーン! コショーサーンっ!! とりあえず日本人が集まると言われている、オーナーの名がそのまま宿の名前になっているコショーサンホテルという宿泊施設を目指してオレは歩いた。コショーサンというのがフルネームなのか、それとも名前が「こしょー」で日本風に「さん」をつけて宿の名前としているのかそんなことはものすごくどうでもいい。ぬくもりを売っていたら1℃につき1000円で買います。 ウィーンガシャ。ウィーンガシャ。ウィーンガシャ(凍りながら歩いている効果音)。 「オーイ、日本人っ! どこへ行くんだ〜っ?」 「はっ。すいませ〜ん! コショーサンホテルに行きたいんですけど〜!!」 「ここここ。その階段を下りてこい! まさにオレが、おまえの探しているそのコショーサンだよ!」 「コショーサンっ!! コショーサン!! 部屋をっ! 部屋をください!! 四方が壁で囲まれている、雪山から吹き下りてくる風も進入できない天井つきの部屋をくださいっ(涙)!!」 「もちろんだよ。今はオフシーズンで部屋はたくさんあるからな」 「ありがとうコショーサン!!」 よく考えてみれば、ものすごくどうでもいいと言いながらもしコショーサンがコショーさんではなく「コショーサン」という名前だったら、こっちはさんづけで丁寧に呼んでいるつもりでも本人にとってはおもいっきり呼び捨てにされているということで、大分失礼なことではある。言葉というのは難しいなあ。 ようやくオレにあてがわれたのは、このような犬つきのシングルルームであった。 犬つきのシングルと言っても別に犬はアメニティではないので、言うなれば犬と相部屋のツインルームだ。相部屋なのにオレだけが宿泊料を払わされるというのは不公平な話ではあるが、シーズンオフで料金は半額となり、1泊100円である。そして、さぞかし日本人旅行者仲間がたくさんいるだろうと思いきや、オレの他には日本人は誰もいなかった。完璧に来る時期を間違えている。 ちなみに部屋の中央にはストーブがあるのだが、毎回毎回コショーサンを呼んで点火してもらわなければならない上に、パキスタン製だけあって周囲10cmまでしか熱が伝わってこない。 そしてベッドのすぐ上、というかベッドに面してはこのような巨大な窓が。いやー、部屋の中からワイドに雪山が見えて最高じゃないか。ああ〜なんて素敵な〜、大塚美容形成外科〜って景色はどうでもいいんじゃーーっ!! 雪山のパノラマより密閉性の方が大事だろうがっ!! 寒いっ!! 窓から冷気が!! 吹き荒れる隙間風がっ(涙)!! なにせこの窓は、カーテンを閉めて侵入する冷気を防ごうと思ってもそんなものは無い。冷気どころか、カーテンが無かったら外を通る全人類から部屋の中が丸見えではないか。常に自分の行動、一挙手一投足が監視されている気分だ。あいのりの参加メンバーかオレはっ!! とりあえず少しでも温まるため、ストーブを囲むように体をらせん状に折り曲げて暖を取ろうと試みたが、そういう人体の構造を超越した体勢というのは伊藤潤二の恐怖マンガの登場人物くらいにしか出来ないもので、なかなか常識的な大人であるオレには難しい。かといって、ストーブの近くに普通に立っているだけでは文部科学省に自殺予告の手紙を出すようなものであり、ほとんどなんの効果もないのである。そんなことではこの苦しみは一切解決には向かわない。 よく考えてみれば、じっとしていると寒い。部屋に入れば万事解決と思ったがそうではないのだ。しかも、ふと気付けば昨日の昼から27時間バスに乗っていたのでな〜んにも食っていない。そりゃあ体温も32℃まで下がるってもんだ。これは、体の中から温めた方がいいな……。 そもそも大いに時期を逸しているとはいえ、ここは日本人に大人気の一大観光地なのである。下手をすれば、日本人御用達のすき焼きとかみそカツとか天ぷらそばとか、天津飯と餃子のセットとか、麻婆ナス丼とか、そういう体の心から温まる大変な喜びを与えてくれるレストラン、そういったものが商店街に並んでいたりしてもおかしくない。おかしくないよ。決しておかしくないよこれは。オレが今から行くから。他に日本人観光客が誰もいなくても、オレが行くから。オレはあんたらの味方だから。たとえ学校中がキミのことを笑っても、オレはずっと応援してるから。ずっと餃子が大好きだから。 オレは昨日購入したパキスタンの男性用の薄茶色のマントで体を厳重に巻き込み、寒さに悶えウヒョウヒョ叫んで飛び跳ねながら商店街へ向かった。うひょー! うひょーっ!! ……ここはごくちっぽけな村であるが、しかしやはり世界中から旅行者が集う有名観光スポット、道の両脇に軒を連ねる商店街はこのように見事にゴーストタウンかよっ!!! おまえらやる気あるのかっ!! ここに観光客がいるだろうが!!! 商売のチャンスだってのに!! 餃子!! ラーメン!! 天津飯セット!! 豚肉と茄子の味噌炒め定食!!! せめて暖房の効いた店内にオレを連れ込んで監禁しながら土産物を売ろうとしろっ!! 2月の客は完全無視かよ!!! フンザの商店の店主は冬眠するのか?? オレというお土産買う気まんまんのおのぼりさん旅行者が来ているのに、このやる気の無さはなんなんだ。オレほんとお土産欲しいんだって。アクセサリーとかオシャレ小物とかに目が無いんだって!! 店員さんに説明を受けたら申し訳なくなって思わず購入してしまうタイプなの!! だから開けて!! 中に入れてっ!! お願い!!! ……。 これは完全に来る季節を間違えたな……。 そもそもこのどんよりとした天候。雪山がどんよりとしてなおかつ陽が沈みゆくと、美しいというよりむしろ恐怖が湧いてくるぞ。も、もう帰ろう…… すごすごと部屋に戻ってみれば、壁の1面を占める巨大な窓、ベッドに寝転がってふと外に目を向けるとさらに暗くなったキングサイズの雪山だ。隠そうにもカーテンがついていないため、オレは一晩中この暗闇にそびえる巨大な雪山と対峙することになるのだ。 なんだろうこの薄気味悪さ。強盗とかオバケとか高さとか狭さとか、そういう知っている怖さとは違うがしかし怖い。強いて言えば、アンドレ・ザ・ジャイアントを見て感じた恐怖がこれに一番近いかもしれない。 おお〜〜い(泣)。怖いぞ〜〜〜〜〜(号泣)。 部屋のどこにいても壁一面のこの黒く巨大なものが目に入るし、恐怖心から山に背を向けてみると、背後から1000人くらいの群集に監視されているような圧倒的な気配を感じる。 しかも、怖いだけではなく寒い。怖いのと寒いのは親戚のようなもの。「怖い」がオレだとしたら、「寒い」はいとこのミキちゃん(5つ年下)だ。 ただ、幽霊が出る直前など、恐怖の気配を感じると背中に冷たい物が走りゾゾッとなるとよく言うが、現状あまりに室温が低く何もしなくても常時背筋が凍っているので、何か霊的なものが近所を通っても気付かなくて済みそうだ。けがの功名だよね。 にしてもこの景色。この凍りつく隙間風。そして隙間風のおかげで外気とほぼ変わらぬ新鮮な空気。室内にいながらにして野宿している気分を味わえるよ! やったー! ここは来る季節さえ間違えなければ最高のホテルだー! ……やばい。凍死する。 これはもう、熱いシャワーでも浴びて体が温かいうちに一気に寝袋にもぐりこむしかない。よーし、備え付けのシャワーを……きっと寒冷地だからホットシャワーにはこだわりがあるはずだ……ギャーー(氷水)!!! うう……宿泊料金からしてなんとなく予想はしていたが、蛇口を捻ってみると圧倒的に低温な、「まるまるちびまる子ちゃん」の狙いうち3文字しりとりでのパパイヤ鈴木の歌声よりも低音な水しか出ない(低温違い)。もしかして、これは山から雪解け水を引いてきているのではないだろうか。 まあ仕方が無い、普段の半額以下の料金で泊めてもらっている上にコショーサン(orコショーサンさん)には美味しい夕食まで作ってもらっているんだ。ホットシャワーが無いことくらい我慢しよう。ただ、この氷水シャワーを浴びたらコショーサンが業務上過失致死罪に問われることになるので、彼のためにもここは体は洗えん。 オレは持参したドライヤーを寝袋に突っ込み、いつも以上の全力で温風を吹き込んだ。そして10分ほど粘ってからスイッチを切り、温かい空気が逃げないうちに持っている服を全て着込んだ状態で寝袋に突撃した。ああ……27時間もかけて移動した後なのに体も洗わないでジーンズにダウンジャケットのまま寝るなんていやだよ〜〜(号泣)。でもこうしないと寒くてどうしようもないんだもん……おお……ああっ、寒い! もう寒くなってきたっ(涙)!!! くそ〜。おまえよく平気でいられるよな……。いくら毛皮着てるからって毛布の1枚もかけずに……。 一応この子はデニーちゃんといって、女の子である。旅が始まって初めて女子と2人部屋に宿泊するわけだが、どうもペットと寝ているようで欲情しない。第一、女の子にしては毛深すぎるし。尻にすら毛がわさわさと生えているではないか。まだせめてこの寒さが無かったらそういう気持ちにもなるかもしれないが……。 なんか、この冷気の中で犬と一緒に眠りにつこうとしていると、ルーベンスの絵の下でパトラッシュと共に天に召されて行ったネロの気持ちがよくわかってくる。 パトラッシュ……じゃなくてデニーちゃん、疲れたろう。ぼくも疲れたんだ。 明日は……、宿を移ろう……。 今日の一冊は、もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら (新潮文庫) |