〜蚊だらけリロングウェ〜





 乗り合いバスで国境の町、チパタに到着したのは
夜の11時。ちなみに、予定到着時間は午後2時だ。実に9時間の遅れである。こんな時間に到着してどうしろと言うんだ? まさか、いくらなんでも今から宿探してウロウロ歩き回れないだろう……。
 せめてバス側で正式な遅延証明書を発行してくれれば、強盗に見つかっても、



「オーイにいちゃん! ちょっとまてや。おまえ高そうな荷物持ってるじゃねえか」


「あひゃ〜っ!!」


「外人がこんな夜遅くに出歩いちゃいけねえなあ。命が惜しけりゃ持ち物全部置いてきな!


「ああああの、決して僕自身の意思でこんな時間に外を歩いているわけではないのです。実はバスの到着が遅れてしまいまして……。ほら、ここに遅延証明書があります」


「なにい!? 遅延証明書だあ? ……ふんふん。じゃあしょうがないな。よし! 行ってよろしい!」


「た、助かった……。どうもありがとうございます」


「いえいえ」



 なんてことに、絶対ならないだろうな……。
 しかし幸いだったのは、バスに乗っている間に周りの黒人と仲良くなっておいたおかげで、乗務員がわざわざオレを近くの宿まで連れて行ってくれたということだ。最終的に、「やっぱりザンビア人って、ジンバブエ人とかと違って黒人の中でも1番スマートな顔してるよね」と
長い物に巻かれたのが功を奏したようだ。

 連れて行かれた宿は1階部分がバーのようになっており、通路には売春婦だと思われる毒々しい女性が立ちんぼ、従業員は目の焦点が定まっておらず、ほとんどならず者の巣窟といった感じの建物だった。雰囲気だけ見ればいつクリントイーストウッドが踏み込んで来てもおかしくない。ただ、アメリカからだと大分交通費がかかるため、実際は踏み込んでくることはなさそうだ。
 もちろん、オレはこじゃれたレストランで突然店側に誕生日を祝われた時のように、
すぐに逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。だがもはやこの時間に荷物を抱えて外に飛び出すのは、不景気で腹を減らした魚がたんまりいる釣り堀の中に、針のついていないゴカイを投げ入れるようなもんである。魚達も大ハッスルだ。
 オレは部屋に閉じこもると、汗だくになった服を着替えることもなくすぐにベッドに倒れこんだ。朝から何も食べていないが、もうこの宿の中でさえフラフラ出歩くのは恐ろしい。今頃他の部屋では、葉巻を咥えたボス黒人どもが人身売買に精を出しているに違いないのだ。オレも奴らに見つかったらきっと2000クワチャくらいの
激安価格で売りに出されるに違いない。何しろ働きの悪さは天下一品(文句が人一倍多いのも自慢です)なため、破格の値段である。
 オレは恐怖におののきベッドの足にカバンをくくりつけ、貴重品を抱えて眠った。

 翌朝目覚めた時には、宿は前日の賑やかさがウソだったかのように静まり返っていた。いや、ウソだったかのようにというよりも、むしろ本当に朝方までドンチャン騒ぎしていたからこそみんな朝は眠っているのだろう。逃げ出すなら今だ!!
 オレはすぐに荷物をまとめ、コソーリと宿から這い出し、国境へのタクシーが出ているという広場へ向かった。
 ここからどうしていいのかわからず、現地人におちょくられながらしばらく右往左往していると、革ジャンにサングラス、そしてドレッドヘアーという、今までで
累計30人は殺してそうな人相の悪いタクシードライバーが声をかけてきた。一体何が起きるのだろうか。オレが31人目になるのだろうか。
 しかし心配とは裏腹に殺人ドライバーの言うことには、彼のタクシーには他にも国境に行く客が乗っており、オレが参加すると丁度規定の人数になるということだった。
 勿論喜び勇んでタクシーに乗り込んだオレだったが、その内部は規定の人数という割には、あまりにも道路交通法を無視していた。
 みんな、普通のタクシーを想像してみてほしい。日本の道を走っているごく普通のタクシーだ。そして、そのタクシーに大人が全部で9人乗っているところを想像してみてほしい。
……どうだ、想像できないだろう。
 これを規定の人数に決めたやつを連れて来い。

 これは狭い。驚異的な窮屈さ加減だ。北斗の拳で、
子供がいっぱいでトキが入れなかった核シェルターよりも狭い。誰もが思ったことだろうが、あれは子供を抱っこすれば絶対トキも入れた(多分原哲夫自身も思ったはず)。だが、このタクシーでは既に大人が大人を抱っこしている。しかも全員男だ。これ以上人を詰め込もうと思ったら、一旦手足をバラバラにして空いているスペースに入れ、国境に着いてからみんなで組み立てなければならないだろう。

 マラウィとの国境まではほんの30分くらい、国境越えはすんなり出来た。ついこの間まで、入国にはビザ代が40ドルかかったらしいが、現在は無料になっている。よかった。なにしろオレは今40ドルも持っていない。
 そこから更にマラウィの首都リロングウェまでは、ワゴン車のミニバスで1時間ちょっとだった。ちなみにここの通貨単位もザンビアと同じくクワチャである。国名がマラウィ、首都がリロングウェ、通貨がクワチャ。
……そんな国になぜ来ているオレ(涙)。およそ卒業を間近に控えた学生や、余暇をエンジョイしたいOLが海外旅行に行こうと思って選択する場所ではないことは間違いない。少なくとも、中国旅行に行こうとしている人間が来る国ではない。なにしろ国名も首都名も通貨名も完璧に聞いたことがない。きっとこの国名も都市名も、適当にアルファベットを並べておいて、宝くじの抽選方式で矢でも撃って決めたのではないだろうか。

 リロングウェのバス乗り場に到着、すぐ近くの安宿にチェックインしたのは昼の1時過ぎ。まず何をおいても町へ繰り出し、メシを食った。一昨日の夜、ルサカでの夕食から数えて実に40時間ぶりのまともな食事である。さすがにこの時ばかりは、オレもおしとやかさを忘れてガツガツ食ってしまった。いかんいかん。着付けの先生に見つかったら叱られるだろうな。そしてこんな生活してたら体を壊す日は近いだろう。
 ここもやはり首都だけあって治安の悪さは筋金入りで、数々の被害情報はオレもここに来るまでに聞いていた。新市街と旧市街を結ぶリロングウェ橋という橋があるのだが、そこを一人で歩いていたら、前後から来た黒人に挟み撃ちにされ、ナイフを突きつけられて荷物を盗られた大田区在住・Kさんの話。バザールを友人と2人で歩いていたら、5,6人の若者に囲まれ所持金を全て奪われた川崎市在住・T子さんの話。いずれもプライバシー保護のため音声を変えているが、直接本人から聞いた話である。
 
 とは言ってもアフリカの都市には
襲われるスリルを楽しむくらいしか娯楽が無く、この日も結局メシの後はスーパーの品揃えを見に行ったくらいで、他にすることもないので日が落ちる前には全力で宿へ戻った。一応スーパーではなんとか楽しい事を見つけようと、ジャガイモが反乱を起こしたり、バジルが野ウサギに恋をしたりといったストーリーを考えながら野菜を眺めてみたのだが、つまらなかった。

 オレは宿へ戻ると、従業員に頼みシャワー付きの部屋のシャワーだけを一時的に使わせてもらっていた。オレの泊まっている部屋は安いのでシャワーもトイレもないのだ。ただこれもチョロチョロの水しか出ないうえに固定されていないので、常に片手でシャワーを頭上に掲げ、そこからムクの小便のようにぼたぼたと垂れてくる水で体を洗わなければならない。
 震えながら体を拭いていると、突然部屋のドアがノックされた。誰だろう? オレの知り合いだろうか? それは100%ない。とりあえず用心もせず開けてみた。



「は、はい、だれですか??」


「ウワーオゥ!!」
「キャーっ!!」
「ハ〜ロ〜!! あなた日本人ね!! ディスコ行きましょうディスコ!!」



 バタン(閉めた)。
 ……うーん。疲れているんだろうか。なんかヘンなものが見えたような気がする。これは早く部屋に戻って寝ないといけないな……。明日も移動しなければいけないし。

 コンコン
 
 またノックだ。やっぱり誰かいるのだろうか? 気のせいではないのか? じゃあもう1回開けて見てみよう。
 ガチャッ



「ウワーオゥ!!」
「キャーっ!!」
「ハ〜ロ〜!! あなた日本人ね!! ディスコ行きましょうディスコ!!」




 バタン(閉めた)。
 ……うーん。本格的に頭がやられたらしい。今日はもう夕飯も抜きにしてゆっくり……ガチャッ



「チョット! なんで閉めるのよっ!!」
「部屋に入れなさいよ!! アタシ達と遊びましょ!!」
「ワーオウ!! ディスコ行きましょうディスコ!!」



「な、なんですかあんた達は!!! 僕はもう部屋に戻るんですから!!」


「なにカタイこと言ってるのよ! せっかくなんだから遊びに行きましょうよ!」
「そうよ! 夜はこれからなのよ!!」
「あなたダンス好きじゃないの? ダンス!」



「いや〜っ! 助けてえ〜〜っっ!!」


「ちょっと待ちなさいよっ!!」
「ダンスよダンス!! ディスコよっ!!!」
「つまんないわねえ……」




 オレの部屋ではないにも係わらずなぜか突然謎の黒人3姉妹の訪問を受け、うろたえて逃げ出すオレ。一体今のはなんだったんだろう……。しかしこうして逃げ出さなければ、もしかしたら今頃3姉妹に骨の髄までしゃぶりつくされていたかも……。いやだ。オレは黒人女性にはしゃぶりつくされたくない。

 命からがら3姉妹から逃れたオレは、夕メシを食いに同じ敷地内のプールバー兼食堂のようなところへ行った。騒ぐ黒人を尻目にチマチマとポテトをつまんでいると、すぐ目の前の照明の下を、無数の黒い物体が飛んでいるのが見える。あれは何だ?? 
 ……。
 蚊だ。
 あの音、あの形、あの飛び方!! しかもこんな数の蚊を一度に見たのは人生で初めてである。おえ〜っ!! 気持ち悪い!! 
 オレは普段から圧倒的に蚊に刺されやすい体質である。小学校時代近所のご学友と近くの山へパーマンごっこをしに行った時、学友はぜんぜん平気だったのにオレだけが
全身をめった刺しにされ、常に体を掻いていたため役に集中できず、登場シーンが少ないパーマン4号役をやらされるハメになった。
 それからも夏になると蚊と戦うことに全力を尽くし、夜中に蚊の羽音を聞いたら絶対に自分の手で殺すまでは寝られないという、運命に逆らえぬ悲しい体質になってしまったのだ。
 ノコノコを踏み続けて無限増殖したかのような大量の蚊を前に食欲も無くなり、オレはそそくさと部屋に戻った。だが部屋の電気をつけ、ベッドに座り込んだ瞬間、オレは何かの気配を強く感じた。

 いる。
 いる、いる、
いるいるいる!!!!

 蚊だ〜っ!! ここにも! そこにも! あそこにも!! オエ〜ッ
 冷静に見てみると、視界の中を必ず2,3匹は蚊がフラフラと舞っている。見回せば蚊、見渡せば蚊である。部屋の中には少なく見積もっても全部で20匹以上はいるであろう。
 オレは暴れた。こんな殺人的な状況があろうか? ただ蚊がいるだけではない。アフリカ、特にマラウィはマラリアの大流行地帯である。マラリアは蚊に刺されることによって発症する。これはまさに名実ともに殺人的といえる状態なのだ。
 暴れながらも荷物の中から近代兵器であるキ
チョールを取り出し、すぐさま戦闘状態に突入した。もはや狙い撃ちなどという相手を思いやった攻撃は出来ない。無差別爆撃である。オレは空中に向かって数十秒間、毒霧を噴射し続けた。
 ……。
 終わった。
 またあたら罪の無い命を奪ってしまった……・。
 しかし仕方がない。やらねばこちらがやられるだけだ。敵の姿を見て一々躊躇していては、自分の命がいくつあっても足りないのだ。
 これでやっと安心して眠れる。宙を漂うキチョールの煙にむせび咳き込みながらも、オレは蚊のいない平和を噛みしめつつベッドに横になった。
 ……。

 プ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ン

 い、いるっ!!! 
いるいるいるいるいる!!!!!!
 なんだ! どうしてだ!!

 うぎゃーーーーーーーっ!! 窓にぽっかり出入り口がっっ→!!!
 入ってくる! 次から次へと入ってくる!!!
 これではいくら近代兵器をもってしても、敵の物量作戦の前にはいずれ敗れ去ってしまうだろう。こうなったら仕方がない。備え付けの蚊帳にくるまりじっと耐えるのだ。
 さすがにこれだけの環境下にある部屋には天井から蚊帳が吊り下がっており、何箇所か穴は空いていたものの、そこを厳重に縛ることによって一応のシェルターを造ることが出来た。
 蚊帳の中で強引に目をつぶり、なんとか眠りにつこうとがんばってみる。

 プ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ン ……

 音が、蚊の羽音が四方八方から迫り、そして
一瞬たりとも途切れない。結界の中に入っているオレに奴らは手を出せないということはわかっていても、このイィ〜〜ンという音を聞かされ続けるのは拷問である。熱帯夜に一瞬耳元で蚊にささやかれるだけであれだけ苦しむのに、それがノンストップのエンドレスである。
 ん? 
 か……かゆい!!! 刺されたっ!! やられたあっ!!! 
 なんということだ。蚊帳にすっぽり入っているというのに、網と体が接触している部分、その僅かな部位を狙って蚊帳越しに奴らは毒針を突き刺して来ているのだ!! 
 もう許さん!! 最終兵器だ!!! おまえら核で全滅だ!!!
 オレの持っていた、いや、正確にはハラレの福さんから輸入した
大量蚊破壊兵器、日本製蚊取り線香じゃ〜っ!!!
 和室に換算すれば4畳半程度であろう狭い部屋、そこにもくもくと煙立つ蚊取り線香はまさに最終兵器であった。ものの5分で煙が部屋に充満し、蚊の羽音が一気に止んだ。窓の穴から侵入してくるニューフェイスもこのすさまじいガス室の空気には耐えられず、機関銃に突撃する新撰組のように次々と落ちて行く。
 そして残ったのは静けさと息苦しさだけであった。
 オレはついに安眠を勝ち取ったのである。いや、苦しくて眠れないが、それでもこれは人間の、文明の勝利といえよう。
 オレは疲れた。





今日の一冊は、ドラマ「半沢直樹」原作 オレたちバブル入行組 (文春文庫)






TOP     NEXT