〜ブランタイヤ〜





 当然のごとく寝不足である。極悪殺人凶虫軍団を殲滅せんがため、最終兵器蚊取り線香の煙で5m先も見えない部屋の中で眠っていたのだ。相当な呼吸困難の状態である。しかしオレ蚊じゃなくてよかった……。もとい、蚊でなくてもこの煙まるけの部屋では、今は人間でも前世が蚊だった奴なら死んでいただろう。とりあえずオレは今生きているので、前世が蚊ではなかったことが確定である。多分オレの前世はマドンナか何かだろう。
 床を見ると、無残にも志半ばで倒れていった何十匹もの蚊たちが、その若い命を散らせている。いつからだろう。オレが、かけがえのない命を奪うことに慣れ、人間としての心を失ったのは……。
 もはや連続殺虫鬼と化してしまったオレは、自分の業の深さを噛みしめながらも、だがぶっちゃけ特に
何の罪悪感もなくさわやかに起床した。別に蚊を殺したくらいじゃ動物愛護団体からクレームが来ることもないだろう。こんなことが問題になるのはせいぜい徳川綱吉時代の江戸城下町くらいなもんである。

 というわけでいつまでもゴロゴロしているわけにはいかない。今日もまた移動である。ここから南下し、マラウィ第二の都市ブランタイヤ、そこでついにトラベラーズチェック500ドル分の再発行を受けるのである!! イヤッホー!! ……そしてそこまでもってくれオレの所持金(現在約20ドル≒2000円)。
 まだバスの時間まで1時間ばかしあるので、前祝いとして宿の敷地内に設けられている食堂で朝食をとることにした。ベーコンエッグを注文したオレは、テーブルに降下してくる蝿を追い払いながら本を読んで待つ。昨夜と違い、蚊の姿は全く見られない。昨日で絶滅したのだろうか? これならベーコンエッグも落ち着いて食えるというものだ。
 オレはおよそ2週間ぶりくらいとなるまともな朝食を、期待に胸躍らせながら待っていた。

 ところが、20分待っても30分待っても、ベーコンもエッグもチラとも姿を現さない。オレは故意にキョロキョロしてまだかな感をアピールしてみたり、従業員の見ている時を見計らって渋い顔で腕時計チェックをしたりと、
日本風の無言の催促をしてみた。だがとぼけたマラウィ人従業員は、相手の気持ちをくみ取るという高度な人間関係のテクニックは身につけていないらしく、何の反応もなしにボケーっと突っ立っているだけだ。
 次第にバスの時間が迫る。
当然のことながらオレは、わびさびのある日本風の暗黙の催促から、サルでもわかるあからさまな督促に切り替えることにした。



「ちょっと!! すいません!!」


「なに? どうかした?」


「どうかしたじゃないでしょう! オレが注文したベーコンエッグはどうなってんの!! 何分待ってると思ってるの!!」


「ソーリーソーリー」


「ソーリーじゃなくて、いつんなったら食べられるの!? もうバスの時間なんだけど!!」


「あー、それがその……」


「なに? なんなの?」


「実は、今姉さんが市場に卵を買いに行ってるんだ。じきに戻ってくると思うから、もうしばらく待っててくれないかな……」


「……」


「ハハハ。ソーリーソーリー」


「食堂コントやってるんじゃねーんだよ!! もういいよ! これ以上待てないからもう行きます! さいならっ!!!」 


「オー、ソーリーソーリー。気をつけてな……」



 ……。
 なんていう理由だ。そんな理由がギャグ以外に本当に存在するとは夢にも思わなかった。今時、
出前の催促を受けたそば屋の言い訳リストにもそんなのは載っていないだろう。しかも従業員が全く悪びれていないところが凄い。これが日本だったら店備え付けのアンケート用紙に苦情を書いて本社宛に送るところなのだが、多分マラウィではそんな文句を言っても、お詫びにお食事券を送ってくる代わりに「だから何?」で済まされるのがオチのような気がする。
 たしかに考えてみれば、
市場に卵を買いに行かなかったらベーコンエッグは作れない。これはベーコンエッグ作りに必要なプロセスである。そう考えると、クレームをつけることの方が筋違いなのかもしれない。……そんなわけねーだろ!!

 結果的にメシを食う代わりに食堂のテーブルで4,50分間休憩しただけに終わったオレは、またもや朝食抜きのままブランタイヤ行きのバスに乗った。
 発車を待つバスには、少年・大人入り混じった物売りが殺到している。オレの座っている窓際にも、お菓子やドリンク、帽子や傘などを売る少年が外から張り付き、なんとかして窓を開けさせオレに物を買わせようとする。彼らの扱っている商品は実に多様性に富んでいて興味深いのだが、一人の物売りのオヤジにオレは言いたい。
 
……女物のワンピースをバスの窓から買う奴がいるかよ!! しかもオレに売ろうとするんじゃねーっ!! 
 なぜかオヤジは子供用のピンクのワンピースを一着だけ持って、窓の外から必死でオレに買うように勧めてくる。あんた一体オレのどこを見たらそれを買う可能性があると思うんだよ……。いや、
ある意味鋭い。

 そこから絶景を見ながら7時間かけて南下、アフリカ大陸を北上している身としては逆流するのは少し悲しいものがあったが、これもまともな旅人に復帰するためである。というより20ドルしか持っていない状態で北上しようとしても、せいぜい地図上で2,3cm分くらいしか進めないだろう。そしてその地で骨をうずめるのだ。
 ブランタイヤでは、バス発着所のすぐ近くにあったバックパッカー用の宿のドミトリーに居を構えた。そこは完璧に外人の旅行者用に特化した宿で、なんとトイレはキレイな洋式で水が流れ、シャワーは熱いお湯が出て、しかもいつまで使っても水にならないのである! これを天国と呼ばずして何と呼ぼうか? ああ……お湯……。なんて官能的な響き。体を洗う時にお湯を使うなんて、そんな贅沢なことをしてバチがあたらないだろうか……??
 ちなみにトイレの男子の方は「gentleman」、つまり紳士用と書いてあったので
オレは入ってはいけないような気がしたのだが、よく考えてみればこの宿に紳士など一人もいない。気にせず使えばいいのである。

 夜、白人の溜まり場となっているダイニングを、なるべく彼らと目を合わせないように小さくなって通り過ぎようとすると、壁際のテーブルに座っている一人の黒髪の青年を発見した。……同民族だ。
 やった! ここで日本人を見つけたのはラッキーだ!! いざとなったら借金を泣きつける!!! すかさずオレは満面の笑顔を浮かべ、「友達になろうよ!」という気持ちを言霊に込め、声をかけた。



「こんにちはっ!」


「あっ、こんにちは……」



 こんにちは。日本での簡単な挨拶の言葉である「こんにちは」は、海外、特に観光地化していない場所においては、初対面の人間を同種だと判断し瞬時に打ち解けさせる魔法の言葉である。それなりに深まっている(と思い込んでいる)作者と2コ下の後輩の仲を瞬時に引き離す、
「わたし、作者先輩と一緒にいるとすごく楽しいし、友達としても大好きです。でも、付き合うとかそういうことは……。ごめんなさい。……あの……受験、がんばってください」とは対極に位置する言葉であろう(号泣)。

 発熱中でやや元気のないその青年は、新藤さんといって、ジャイカ(JICA)という青年海外協力隊の親玉のような団体のメンバーとして、ザンビアの学校で教壇に立っているということだった。今は休暇中なので、旅行に来ているということだ。
 休暇中にわざわざ飛行機でマラウィに旅行に来るという行動についてはオレが弁護士だったら「異議あり!」を連発していただろうと思うが、この際親しくなる(借金を頼めるほどまでに)ことが第一の目的であるので、アフリカのベテランである新藤さんにはいろいろと教えを請うことにした。



「いやー、しかし大変ですねー、ザンビアに1年以上も住むなんて」


「まあ最初はそうだったけどね……。慣れると結構楽なもんだよ」


「でも危なくないですか? 夜なんて強盗ばっかりで……」


「そんなことないよ。僕の住んでるとこなんてザンビアの中でもかなり田舎の方だから、むしろ強盗も夜はいなくなるんだ」


「え? 夜になるといなくなるんですか? 都市部と逆なんですね……」


「そうそう。なにしろ夜は
気をつけないと野生の象に踏まれるからね。強盗も暗くなり始めたら避難するんだよ」


「……そ、そうなんだ」



 うーむ。
ディスイズアフリカのお国事情。
 さすがに凶悪なアフリカの強盗も、野生の象と戦ったら負けるらしい。当たり前といえば当たり前なのだが、夜になると避難している強盗の姿を想像すると結構情けないものがある。……っていうか強盗の代わりに野生の象が暴れまわってるんなら
どっちにしろ夜出歩けないやんけ!! むしろ象の方が、「金はやるから命だけは助けてくれ!」という命乞いが全く通じない分よっぽど恐ろしい。



「どんなところに住んでるんですか一体……」


「いやー、まあ確率で言ったら野性の動物に出会うことは結構珍しいんだけどね。せいぜい道端でコブラがカエルを飲み込んでるところを見るくらいかな。この前なんか学校から帰る途中でコブラ踏みそうになってびびったなあ……」


気さくに語ってる場合か!! あんたおかしいよ! 学区内にコブラが出る学校もおかしい!」


「学校は別に普通のところだよ。生徒は少ないけど、やってることは日本と同じだよ。給食とかもちゃんとあるし」


「へー……。にわかには信じられないですけどね……。でもたしかに日本人の新藤さんが指導に行ってるんですもんね。そんなもんか。給食もちゃんとしたものが出るんですか?」


「もちろん。大体朝の10時頃になると元気な牛が一頭運ばれてきて、『みんな、今日の給食はこれだぞー』って言って
それを生徒達と一緒にさばいて給食で食べるんだ」


「違うっ!! 日本と違う!!! 日本の小学生は牛をさばかないです!!!」



「ははは。別に毎日毎日牛をさばいてるわけじゃないよ。日によっては鶏をみんなで絞めて……」


「それも違います!! 日本の小学生は鶏を絞めないです!!!!」


「でもねー、そうやって自分達の手で生き物を殺して食べることって大事なことだと思うんだけどね。そうやることによって食べ物と命の大切さがきちんと学べると思うよ」


「なるほどね……。考えてみると結構深いですね……」


「あー、かいー……。しかし作者くん、よく刺されないね?」


「むふふふ。僕は文明の申し子ですからね。日本から持ってきた防御用秘密兵器・スキンガードを体中にまぶし済みです。新藤さんもどうぞ」


「あ、ありがとう。使わせてもらうよ……」



 説明しよう。蚊の理想郷でもあるマラウィは、人口より蚊の数の方が100倍くらい多い。当然のごとくここブランタイヤでも奴らは無限増殖しており、今こうしていても目の前をひっきりなしにプ〜〜ンと浮いたり沈んだりしている。しかしこんなことを想定してオレは、日本から蚊よけスプレーの王道、スキンガードを持参しているのである。キンチョールや蚊取り線香が攻撃型のスカッドミサイルだとしたら、体にスプレーして蚊から守るスキンガードはパトリオットミサイルである。この乱世においては、我々は常に頼るべき自衛手段を用意しておかねばならぬのだ。
 


「大丈夫ですか? マラリアとか罹ったら大変ですよ」


「そうだねー。アフリカのマラリアは発症したら3日で死ぬからね……」


「ああ、その話、南アフリカで会ったカップルも言ってました。でもこのヘンってマラリア患者が多いから薬とかも整ってるんじゃないんですか?」


「たしかにそうだね。でも薬はよくても衛生観念に問題があるんだよね……」


「それはどういうことですか?」


「病院で注射すればマラリアは確実に治るんだけど、結構注射針なんかを使いまわしてることが多いんだよ。つまり、マラリアを治そうと注射打ったらエイズに感染したなんてことも平気で起こっちゃうんだよね……」


「ガビーン!!」


「まあ、結局罹らないように気をつけるのが一番ってことだね……。か、かいー……」



 そうか。気をつけるのが一番か……ってそういうあんた
無茶苦茶刺されてますがな。
 しかしこれは盲点だった。いくら即効性の薬があろうとも、マラリアが治ったと思ったらエイズに感染するのではたまったものではない。
ペチャパイの女性が大枚はたいて豊胸手術をした直後に、貧乳好きの男を好きになってしまうようなものである。……。違う?
 マラリア。なんと恐ろしい病気だろう。これからも、行く先々で蚊との死闘は避けられないということだ。
 まあとりあえず、刺され具合で言ったら先に発症するのは新藤さんなので、オレは彼を参考にしながらこれから気をつけていけばいいのである。どうかお大事に、新藤さん。





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