〜ブランタイヤ2〜





 夜中、ゴソゴソいう物音に目覚めると、別のベッドで寝ている白人女性が暗闇の中で必死に大量蚊破壊兵器蚊取り線香に火をつけているのが見える。多分寝ている間に死ぬほど刺されたのだろう、ライターを着火する手は、抑えようのない怒りで打ち震えている。……ばかものめ! 無益な殺生をしおって! オレの前世がマドンナじゃなく徳川綱吉だったら即島流しじゃ!!
 尚、前日まで連続殺虫鬼であったオレがこのようにガストのランチように日替わりで態度が変わっているのは、今日のオレはケープタウンのアツアツアベックにもらった蚊帳の中で何の問題もなくすこやかに眠っているからである。
 全部で12人分のベッドがあるこのドミトリーに現時点で泊まっているのは、オレと白人の彼女の2人だけ。本来ならば部屋の中に生息する蚊軍団の攻撃には2人で協力して対処するはずなのだが、オレだけ早々に結界の中に逃げてしまったため、若い彼女が自らの体を張ってたった一人で全ての攻撃を受け止めている。弁慶の立ち往生を思い出させる、壮絶で感動的なシーンだ。……ありがとう、見知らぬ白人女性。オレは、きっとあなたが体を張って守っただけの男になってみせる。
 ちなみに、その名前からして「蚊取り線香」は日本独自の製品だと思っていたのだが、アフリカにはアフリカ製の蚊取り線香がある。形、効果などは日本製と特に変わらないのだが、日本製が緑色なのに対して、こちらの物は茶色くミソのような色をしているのがミソだ。

 そういえば、マラリアというのは感染しても体力があるうちは発症しないらしい。そのため下手をすると、帰国後数年してから発症などということもあるのだが、その場合日本や他の先進国にはマラリアの治療薬が無く、死亡する可能性が非常に高いということであった。つまり、「あれ? 感染したかなあ?」と思ったら、アフリカにいるうちにがんばって発症して治療を受けるか、残りの人生を時速60km以下になると爆発するバスのように、勢いを保ったまま絶対に体力を落とさないよう過ごさねばならないということだ。バスと違って、人生の場合はキアヌリーブスの助けも期待できない。

 朝になり、体中を
掻きむしっている彼女を尻目にワサワサと蚊帳から這い出るオレ。
 トイレに行くと、やはり朝ということで
いつもは大して行列の出来ていないラーメン屋にテレビの取材が入る日くらい大盛況で、個室は1つを残して全て埋まっていた。オレもその最後の個室に陣取りやぼ用を済ませていると、遠くからトイレに向かって走って来る音がする。足音はトイレの入り口で止まり、代わりに満室の状態に絶望した「オーッマイガッド!」という悲鳴が上がった。
 ふっ。おろかな……。この弱肉強食の朝トイレの世界、ここには譲り合いなどという安っぽい正義は存在しねえ。常に前に出て、他人を押しのけ、1分1秒でも現場に早くたどり着いたものの勝ちなのである。勝者はスッキリし、
敗者はただもらすのみだ。
 ゆったりと便器に腰掛け、頭の中でモーツァルトのピアノソナタ・第2番ヘ長調を奏でながら優雅に漂っていると、外で我慢できない外人が唸っているのが聞こえる。かわいそうに。きっと彼は今一生懸命自分との戦いを繰り広げているのだろう。だが、そんなに苦しいのだったらただ呻いて待っているのではなく、行動を起こすべきである。片っ端からノックしていけば、一人くらい
「どうぞ」と言ってくれる奴がいるかもしれないじゃないか。

 その後久しぶりに歯を磨いてみたのだが、歯ぐきから血が出たと思ったら延々と止まらない。旅の疲れで体がイカれてしまったのだろうか? ひょっとして、アフリカを旅することにより肉体が強靭になり、普通に歯を磨いているつもりが力が強すぎて歯ぐきごと根こそぎ削り取ってしまっているのかもしれない。
 他にも、ビクトリアの滝へ行った時に作った足の甲の靴擦れが、1週間も経過しようというのに一向に治る気配がない。むしろひどくなっている気がするその傷の表面は、保健室に貼ってある「ケガをしたら必ず消毒をしよう! バイ菌が入ったまま放っておくとこんなヒドくなってしまいます!」というポスターの「こんなヒドくなってしまった状態」の写真にそっくりである。
 なんか、全体的に体が死人に近づいているような気がするな……。

 さて、今日1日の予定は、ひたすら金を使わずに時が過ぎるのを待つのみである。ブランタイヤの銀行で、盗難に遭ったトラベラーズチェックのうち500ドルが返ってくることになっているのだが、笑っちゃうことに本日は日曜日である(笑)。明日になるまで全く身動きが取れないのだ。
 とりあえず「遅く起きた朝は・・・」で磯野貴理子のトークでも見ながら時間を潰そうと思ったのだが、マラウィではやっていなかった。それならばと、死人に近づいている体を少しでも健康にするため乾布摩擦を試みたのだが、今度は歯ぐきではなく肉が削り取られ血だらけになりそうだったので、これも却下した。

 そして、あまりにもやることがなさすぎたため昼間の記憶はダルマ落としのようにスッポリと抜け落ち、あっという間に夜になった。
 オレは宿のダイニングで、最後の力を振り絞り注文したサンドイッチを食っていた。この時点でオレの残りの全所持金は300クワチャ、
日本円にして400円である。もはや貧乏さ加減も究極の状態である。いや、もはや貧乏ではない、だ。無我の境地である。これでもし明日なんらかの事情により再発行が出来なかったら、ここでさよならです。明日の夜には、マラウィ初の色白ホームレスとして橋の下あたりで華々しくデビューすることになるでしょう。
 しかし世の中に旅行者は数多しといえど、帰りの航空券もカードもない状態で所持金が400円という状態を経験した人間はあまりいないのではないか。そういえば今日は12月23日、明日はクリスマス・イブである。だが、
キリストの誕生日を祝っている場合ではない。もし明日ホームレスデビューすることになったら、明石家サンタにでも電話してみることにしよう。そんじょそこらの不幸話には負けない自信があるが、バラエティとして笑い飛ばせる話ではないため採用は難しいかもしれない。
 


「コンニチュハー」



 こ、こんにちゅは? 小学生の日本人バックパッカーか?? 
イクラちゃんか? 妙な日本語に振り向くと、オレに声をかけてきたのはイクラちゃんではなく、日本の路上でアクセサリーでも売っていそうな怪しい風貌の外人だった。



「あ、こんにちゅわー」


「どうも。ニホンジンでしょ? 僕はイスラエル人です。どうですか? そのサンドイッチはおいしい?」


「ええ、まあね。食べます?」


「いやいや、いいよ」


「そう。……まあそんな社交辞令的話題はいいとしてなんでイスラエル人のあなたがイクラちゃん風とはいえ日本語喋れるんですか?」


「いやー、実はちょっと前に日本の路上でアクセサリー売ってたことがあって」


そのまんまかよ!! ……へー。でもちょっと興味ありますよ、それ。日本のどこで?」


「ギフケンでね。1年くらいかなー」


「し、渋いとこでやってたんだね。そうか、岐阜か……。オレここだけの話、大学時代にお付き合いしてた子が岐阜に住んでたんだよねー」


「そうなの? ボクもその時ニホンジンの彼女がいたよ。もしかしたら同じ子かもね」


「あー、あり得るねー。たしかに妙にデートの予定が合わなかったし、彼女毎回ヘンなアクセサリーつけて来てたからな……って
そんなわけねえだろっ!! いや、ちょっとまて、違うだろ?? ま、まさか……??」


「ハハハ。冗談冗談。でもボクの場合はやっぱり彼女の両親が交際に猛烈に反対しててねー」


「そうなんだ……。まあ親御さんの気持ちもわかんないでもないけど、辛いよね。でも別に好きなら親がどうとか関係ないんじゃない? 2人の気持ち次第だよね。それで結局どうなったの?」


「すっげえムカついたからさー、彼女捨てて国に帰ったんだよ」


愛は無いのかよ!!! そこに愛は!! 慰めようとしてちょっといいコメント述べてやったのに!」


「日本とイスラエルじゃ離れすぎてるしね。無理だよ。ムリムリ」


おまえが言うなっ!! か、かわいそうに……その彼女は親どころか彼氏にも交際を反対されてたのか……」


「ボクは申年生まれ。何歳かわかる?」


「えーと……たしか今年は馬年だから……げっ!! さ、34歳だったの……? か、かなり年上ですね。ちょっといろいろ失礼なこと言っちゃいました……。すいません」


「違うよ! 22歳だよ!」


「げげっ!! 見えねーっ!! じゃあ相当年下じゃんか。……。
おまえ年上に向かってさんざん失礼なこと言ってくれたなあコラっ!! しかも純粋な岐阜の少女をポイ捨てしやがって!! 許せん!!」


「ハハハッ」


はははじゃねーっ!! もうちょっと若作りしろっ! そのヒゲのボリュームはどう見ても34歳だよ!!」



 ←ヒゲと髪の境目がわからない22歳のイスラエル人は、フジテレビのアナウンサーとは全く関係ないが名前をチノと言い、友人と一緒にケニアのナイロビから4WDで南下しているということだった。もしチノが北上していたら、年上のプライドなど宇宙刑事の変身するスピードより速く投げ捨て、コバンザメ状態で車の屋根にでも延々とくっついて行くところなのだが、残念ながら彼らとはここですれ違いである。
 しかし22歳とは思えないすさまじいヒゲである。天然パーマがかかっており髪と全く同じように見えるため、ヒゲを剃っていたら
どこまでがヒゲでどこからが髪の毛かわからず、いつの間にか頭まで刈り上げてしまいそうである。
 チノには路上アクセサリーについていろいろと話を聞かせてもらったのだが、なかなかに興味深い話だった。オレは最初、ああいう人達は個人的に外国から持ち込んだ物を売っていると思っていたのだが、意外にも彼らはちゃんとした会社に属し、場所や商品の指示を受けて商売をしているということだった。チノ曰く、「個人でそんなことをしたらすぐヤクザにインネンをつけられるからねー」ということだ。なるほどね……。ということは、その会社がキチンとヤクザと話をつけているのだろう。
 
 思いがけず路上アクセサリー売りについてためになる勉強をさせてもらい、夜は実に楽しく過ぎていった。この夜が明ければ次は明日である。
 明日の今頃は盗難以来久しぶりにリッチな気分でディナーを味わっているだろうか。とりあえずそう願い、部屋に戻ったオレは再び蚊帳の中へ潜った。向こうのベッドでは、今日も白人の女性がたった1人で大群の蚊を相手に、激しいバトルを繰り広げていた。がんばってね。





今日の一冊は、ホテル勤務時代、こっそりこの本にサインをもらった…… 小橋健太「青春自伝」熱き握り拳






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