〜ガブっとイスタンブール〜





 ううっ、ううっ……。
 
待ってくれ〜〜(涙)。行かないでくれ〜〜〜〜(泣)!!!

 あああ〜〜〜っ、
寒い〜〜〜っ!! 怖いよ〜〜〜!!! 心細いよ〜〜〜!! 寝てないのにっ!!!! ここはどこなのっ(号泣)!!!!

 普通「イスタンブール行きの夜行バス」と言ったら、ひと晩走って朝7時くらいに寝れない目を擦りながら長距離ターミナルに到着するもんだろう。朝もやのイスタンブールに滑り込むもんだろう。
 しかし、朝もやなど
遠い幻。一体いつのオレが悪かったのだろう。ツアーの間ずっと女子大生を脳内で下着姿に変換していた罰なのだろうか(時にはそれ以上)。なぜか夜中の3時ジャストに、オレは1人だけイスタンブール(と車掌が言っていた)の真っ暗な道端に荷物と共に放り出された(涙)。
 どうやらオレの乗ったバスはイスタンブール経由のどこか(謎の場所)行きであったようで、他の乗客はだ〜れもこんなところで降りていない。一人オレを夜中の道端に残して、
「もう降ろしたからには後のことは知らん」とエンジン音で語りながら、豪華バス(トイレの芳香剤の香り)は暗闇の中でじわじわと小さくなっていった。消え行くブレーキランプを見つめていても、「愛してるの合図」すら送ってくれない。車掌にとっての僕の存在って、所詮そんなもんだったんだね。よおくわかったよ。
 ああ、多分バスから見たらオレの姿も闇の中の点になってるんだろうな……。こんな時間に吸殻と一緒に路肩に投げ捨てられるくらいなら、もうなんでもいいから終点まで一緒に行きたかった(号泣)。スペインあたりに着いて闘牛士になるのもいいかなと思ってたし。

 これはもうギネス級の不安である。考えてもみたまえ(「考えて揉みたまえ」ではなく、「=考えてみたまえ」の方)。寒い真夜中に外出というのは、たとえ自分の家の近所だとしてもかなり心細くなるもんである。また、初めての町、ましてや外国の町というのは、たとえ昼間でもかなり心細くなるもんである。それが、
寒い真夜中に初めての外国の町である。トランプで表現すれば不安のフォーカード。もし「タイタニック」の冒頭のポーカーの場面でこれだけ高得点の組み合わせを出していたら、ディカプリオではなくオレがタイタニックの乗船券をゲットしていたことだろう。
 とはいえ、結局あそこのポーカーでの本当の勝者は、
乗車券を奪われたためタイタニックに乗れず命拾いした無名の青年であるのだが……。

 体の前と後ろに合計20kgのバックパックを取り付け、手には寝袋や毛布や水の入ったでか袋。そもそもが長距離を歩ける装備ではない上に右も左もわからない。こんな時に限って、旅人の行くところ必ず出没する客引きタクシーの姿は無い。いつもそうだ。いなくてもいい時にはいるくせに、肝心な時にはいないのである。
白バイ隊員や字牌と同じ存在感だ。
 しかし、こんな時のためそして夜中にアパートの隣の部屋を覗くために修行で身に付けておいた
必殺猫目を駆使して辺りを見ると、1枚の看板が見えた。するとそこには……、「この先バスターミナル」の文字が! おうっ! 現在地は、意外と長距離ターミナルの近くなのだ。どうりで意外と長距離ターミナルの近くっぽいと思った!
 ただ看板の示す方向は草むらに挟まれた全く人気の無い細道で、少なくとも見える範囲にはとてもそんな大きな建物は無い。進むのには勇気がいったが、しかしそこにしか救いの道は用意されていないのである。とにかく歩かないと始まらん。タクシーが通るのをじっと待っていたら、その間に寒さかトルコ人の強盗かどちらかに叩きのめされる可能性がある。

 オレにとってはユダヤ人を導くモーゼのような希望の光である看板を信じ、暗く静かな道をオレはよたよたと歩いていった。こ、こわい……あああさむいよ〜〜こわいよ〜心細いよ〜〜〜フロに入りたいよ〜〜〜ベッドで眠りたいよ〜〜〜〜
ガブッ



 ……おや?



 なんか
ガブッっていわなかった今?? なーにそれ??


 
ああっ(涙)!! いで〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜足がっ!! 足が痛いっ!!! なにこれっ! なにっ!! なにっっっ(号泣)!!!

 ガブッという効果音とともに突然体を貫いた痛みに反射的に振り返ってみると、
筋肉質のノラ犬がオレの右のふくらはぎを力いっぱい噛んでいた。


 
うわああああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ(号泣)!!!


 ひあゃっ! 何すんだっ(泣)!! オレはドッグフードじゃね〜〜〜っ(涙)!! 食べないでっ!! ああ〜〜〜〜〜〜っっ! おぎゃ〜〜〜〜〜〜〜〜っっ(号泣)!!!


 腹と背中にリュック、手にも荷物で
足には野犬。身動き出来ないまま情けない声で何度か悲鳴をあげると、ノラ犬くんは一旦オレの足からお口を離し、そのままの体勢で2,3歩後ずさった。そして、そこで初めて歯をむいてガルルルと唸り、堰を切ったように吠え出した。


「ガウワンワンワンワンッ!! バウワウワンワンワンワンッッ!! ガルルルバウワンガウワンワンッッッ(怒)!!!」


「ひえ〜〜〜〜っ!! やめてケロ! 許してケロっ(涙)!!」


「ワンワンワンワンッ!! バウワウワンワンワンワンッッ!!」




 おお、おまえちょっと……、怖いけどちょっとひと言いわせてくれよ……。
 あのな……。
吠えてから噛めよっっっ!! どう考えても逆だろうがっ!!! 普通の犬は「近寄るな! それ以上近づいたら噛むぞガウワウっ!!!」と吠えてそれでも言うこと聞かなかった場合に噛むんだろうがっ!!! なんで先に噛み付いてるんだよ!!!!
 よく考えてみろ、強盗だってFBIの捜査官だって、「動くな!」と警告してから撃つじゃねーか!! 撃ってから「動くなっ!」と警告する奴がどこにいるんだよっ!! その吠えは全く意味がないんだよ!

 オレは「ひえ〜〜〜〜っ」と叫びながら、
必死の思いで暗い夜道を逃げた。助けて〜〜っ(涙)!! 怖いよ〜〜〜!! ただでさえ寒くて怖いのにっ!! もっと怖いっ(号泣)!!!
 つい今しがたは寒い真夜中に初めての外国の町ということで不安のフォーカードだったが、今では寒い真夜中に初めての外国の町で
ノラ犬に襲われるという、不安のロイヤルストレートフラッシュの完成である。
 なんとかオレは襲い来る野獣の恐怖から脱することができた。おのれ〜〜〜っ、オレが普段どれだけ犬を大切に扱ってるか知ってるのか!! 可愛がりすぎて顔が犬っぽいとまで言われるんだからな!!!
 うう……こっちにバスターミナルがあるっていう看板を信じてこの道を来たのに、なんでこんな獣の待ち伏せを受けなければいけないんだ。もしかしてあの看板、夜中にこうして獲物を引き寄せるために
ノラ犬が自分で設置したのではないだろうか?? 見事にオレはノラ犬野郎のワナにはまってしまったんだ……。
 ああ、でもトルコでよかった……。トルコだからノラ犬で済んだけど、ここがタンザニアとかだったら
もっとすごい肉食獣に足まる1本食われていたかもしれん。

 もう冷静な心は失ってしまっていたので、とりあえずオレは犬から逃げたまま慣性の法則で何も考えずに歩き続けていた。すると、そこには!! さっきの看板は別にノラ犬のワナというわけではなかったようだ。本当に、
明かりという明かりが全て消えたバスターミナルがボンヤリと闇に浮かび上がってきた。
 ……。
 お〜いっ!! ちょっと待ってくれよ〜〜(涙)!!!
 先進国なのだから深夜発着のバスもあるし、バスターミナルにさえ辿り着けば何とかなると思っていたのに、ここにはなんの活動の気配もない。最後の手段だとすがりついたのに、
むしろ与えられたのは絶望。「女にモテる条件」という本を買って読んでみたら、「おまえこんな本買ってるからモテないんだよ!! このオタク野郎!!」と書いてあったようなもんである。

 しかしなんとか寒さだけでも、いや寒さをしのぎ残虐なノラ犬や悪人から隠れる場所を探そうと、ヘナヘナよろめき右足を引きずりながらオレはターミナルの建物を物色した。どっか開いてないかな……。シャワー&暖房つきの仮眠室なんかがたまたま鍵をかけ忘れてたらいいのに……。くそ〜
こんな丁寧に施錠しやがって!! こんなボロターミナルに夜中に侵入しようとする奴なんているわけないだろうがっ!! 警戒しすぎなんだよ!!! 近隣住民を信用してないのかっ!! だから先進国はダメなんだ!!
 ピカッ
 ぎゃっ!! まぶしい!! やめろっ! そんなものでオレを照らすなーっ!! オエーーー!! イヤーン!


「なーにやってんだおまえ? 旅行者か??」


 ……人だ。うおっ人だっ!! 管理人だっ!!!


メルハバ(こんにちは☆)! メルハバ!!! 僕はドロボウではありません!! こんなに大きなカバンを持っているけれど盗品を入れるためではありません!!! だいたい、こんなにお上品な雰囲気を漂わせたドロボウがいるでしょうか!!」


「たしかにいない。そんなお上品なドロボウは。なんだ? 今頃着いたのか?」


「そうなんですっ!!! こんな時間にトルコ人の野郎は僕を1人道端に下ろしやがったんです!!!」


「フーン。トルコ人がねー」


「トルコ人といってもあなたはいいトルコ人ですっ!!! さっきのは悪いトルコ人だったんです!!」



 オレは自分の近況についてジェスチャーを交え熱を込めて説明し、犬に噛まれたことも涙ながらに報告し「痛いんです(涙)。寝る場所が無いんです(号泣)」と管理人さんにすがってみた。するとおじさんは「こっちゃこい」とオレを先導し、建物の一画で密かに営業していた地下喫茶店のようなところへ連れて行ってくれた。東京のオレの部屋くらいの広さ(7畳)の店にマスターが1人いて、地元民の
荒くれ者3人がなにやらサイコロ賭博をしている。
 促されるまま隅っこで小さくなり、チャイを注文しやっと一息つく。しかし、
賭博といえばヤクザ、逮捕、殺し合いではないか。荒くれ者たち、乱暴してきたりしないだろうか。それに「トルコ警察24時」的な番組で刑事がいきなり踏み込んできたら、ついでにオレも捕まってしまうのではないだろうか。オレのような美しい尻を持つ男が中東で刑務所に入ったら、毎晩乱暴な囚人たちに何をされるか……(涙)。
 とはいえ、とりあえず目下の心配はヤクザよりも狂犬病である。右足に注目してみると、たしかにジーンズにはくっきり
お茶目な歯型がついているが、幸い穴は空いていない。ふくらはぎもやはりクリリンのおでこのように何箇所か凹んで皮が剥けたくらいで済んでいた。予防接種も受けているし、だいいちオレは普段あんなにも犬に優しくしているのである。こんなオレを狂犬病にしてしまったことが他の犬に知れたら、あいつは犬世界から追放されるに違いない。やつもそこまでのリスクを冒してオレにウィルスを感染させることは無いだろう。

 オレはその喫茶店で荒くれ者にからかわれたりしながら、
3時間ほどちんまりと座っていた。佐藤寛子のDVDですら30分も観ていれば飽きてくるのに、タバコの煙に覆われながら全く何もせずただ3時間も座っているのはかなりの辛さであった。何度か荒くれ者にちょっかいを出された時には、彼らの目をキッと睨みつけ「勘違いしないでください。舞妓は、芸は売っても体は売らんのです!!」と京女の誇りを見せつけてやるのだった。
 やがてイスタンブールの空もオレの顔色と同じく青白み始め、地下鉄の動く時間になった。マスターにお礼を言って店を出ると、
またも激しい腹痛に襲われた。肉体精神共に疲れている時の定例イベントである。
 オレが震えたり噛まれたりと苦労している時にのうのうと寝ていやがった一般市民で賑わいだしたターミナルで、オレはトイレを探した。腹痛マスターの第六感で公衆トイレをうまく見つけたはいいが、
トイレ使用料が35万リラである。スイートルームの個室に尻を素手で拭いてくれるブロンド美女でも備え付けられていそうな数字だ。まあオレの手持ちは2億リラだから別にそんなはした金、痛くも痒くもないがな……。あ〜あ、それにしても、腹が痛いよ〜〜〜〜(号泣)。いだい〜〜〜(涙)。

 さて、地下鉄とトラムを乗り継いで、オレはブルーモスク(下写真参照)近くの宿へ向かった。しかしなかなかオレのIQが低いため、地図を見ても場所がよくわからない。何年か前に「話を聞かない男、地図を読めない女」という本があったが、オレは
話は聞くが地図は読めない。それでも男で悪かったな。
 通りすがりのおじちゃんに道をお尋ねしてみると、犬に噛まれたオレに同情してか親切に教えてくれた。お礼を言って握手をしたのだが、おじちゃんはオレの手を握り締めながら、ここではごく普通の挨拶なのだろうか、オレに
左右のほっぺたを順番に摺り寄せてチュッ、チュッとやってきた。
 
イヤ〜〜〜〜〜!!! ヒゲがっ!! おじちゃんのヒゲがジョリってこすれて気持ち悪いっ!!!
 もちろんこれがセクハラでなかった場合を考え笑顔のまま一切抵抗しなかったのだが、それはまだあどけなさの残る少女にとってはあまりにもショックの大きい出来事で、その時の私はしばらく放心状態のまま動くことができなかったのです……。

 やっとのことで宿に辿り着いたオレは、ぐったりとベッドに倒れこんだりは別にせず、朝から観光に繰り出すという暴挙に出るのだった。典型的な引きこもり体質のくせにこういうことを繰り返しているから、オレは毎週毎週腹を壊して泣き叫ぶことになるのである。
 さあともかく、南アフリカから続いた北上はこれにて終了。イスタンブール、この街から、
アジア横断のスタートである。今からスタートかよ……。


 イスタン名物アメフトじゃないよスルタンアフメット(別名ブルーモスク)







今日の一冊は、
知っていましたか? 「笑点」という番組名はこの「氷点」をもじってつけられたということを 氷点(下) (角川文庫)






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