〜アルティット村での出来事〜





 オレは、天井を見ながら
「ハイッ!!」とひと言気合を入れ、せーので寝袋から飛び出した。


 
ウワシャーッ!!


 
ちょもやまあああおおおおお!!!


 
ほおおおおおっ、ほおおおお゙お゙お゙(号泣)。


 
寒いぞ。あーさむい。さむいさむい。うおっ、寒い。はあ寒い。寒い〜〜っ!!



 ……ということで、
オレは寝袋に戻った。
 うう。寒い。はあ寒い。おお寒い。しかも、ただ寒いだけじゃない。
きっとこうなると思っていたが、あまりの寒さに「寒い」と連発もしくはただ叫ぶだけで、オレの文章表現能力の限界を露呈させられている。
 ほおおお〜寒い〜〜ブルブル(ひとりバイブレーター)。でも考えてみてくれ。決して弁解するわけではないが、「寒い」と絶叫すること以上に寒いことを他人に伝えられる方法があるか?
 たしかに、Web上にごまんとある他の旅行記との差別化を図ろうとしたら、簡単な言葉だけでなく時には難解な言葉も織り交ぜて、「理解できないけどきっとなにかすごいことを言っているんだろうなあ」と読んでいる人に思われる、
姜尚中教授の論説のような意味不明ぶりを発揮すべきかもしれない。
 だが、弁解するわけではないが、決して弁解するつもりはないが、
寒いから頭が働かないんだよ〜〜(涙)。寒いんだからしょうがないじゃん。弁解はしないけど寒いからしょうがないの。寒くてそんな姜尚中さんのようなシャレたこと考えられないの。とりあえず何か言う前に「グローバリズムの観点から」という枕詞を付け加えるくらいだったら出来るけど。
 ……まあしかし、何事もチャレンジだ。うまく表現のバリエーションを広げて注目されれば、1日100ヒットを越える人気旅行記になって、もしかしたら出版社に目をつけられたりするかもしれない。そして借金をしてまとまった金を作れば、
共同出版への道が開けるかもしれない。よし、これを機会にいろいろと寒いに対する別の表現を考えてみよう。

 ……。


 えーと。

 はあ〜〜〜〜っ。
しばれる〜〜〜〜〜!!! しばれるよ〜〜〜!!!

 なんてしばれるんだ……。確実に朝が1日のうちで最もしばれるな……。
 霜の張った窓の枠からは相変わらず雪山の表面を撫でてシャーベット状になった(実際はなってないけどそんなイメージの)冷風がドピュドピュと侵入してくる。人が嫌がるのも無視してこれだけ躊躇せずにズカズカ部屋に入ることができるのは、フンザの隙間風の他には
東京地検特捜部くらいだ。
 うぬうう……。あまりの冷やされぶりで、寝てる間に雪山で遭難して「おいっ! 寝るな! 寝たら死ぬぞっ!!」「だめだ……もうオレはダメだよ……オレを置いてみんなで山を下りてくれ……」「何いってるんだ!! オレたちはいつも一緒だろうが!! おい! 作者!! 起きろっ!! ビシバシビシバシビシバシビシバシ(往復ビンタ)」というような、
理不尽な暴力を振るわれる夢を見たじゃないか。オレは幼少時より一貫して暴力反対のスタンスを貫いているのに。暴力シーンが大嫌いだから少年ジャンプなど1度も読んだことが無く、代わりに花とゆめを購読していたのに。
 ちなみに、流血シーンとかも絶対に許せないから、北斗の拳なんて1ページたりとも、
開いたことすら無いんだ。だってオレは血を見ると「いてえよ〜〜!!」と叫んで部下を撲殺しまくるハート様と同じで、血が大嫌いなんだ。だから北斗の拳なんて、開いたことも無いんだ。ウソじゃないよ。ヨ、ヨダレじゃありません、ちィ…血でずげべ。お…おまえはヌメリ!!

 さて、オレの持っている目覚まし時計には温度計もついているのだが、確認してみるとこの時示していた室温は
摂氏2.5℃であった。
 なるほどお。2.5℃ってそりゃおまえ、
冷蔵庫の設定温度より低いだろうがっ!!! てめーコラっ!! この部屋は冷蔵庫の外なのに冷蔵庫の中より寒いのかよ!!!

 うーん、これならフンザで販売している食品群は、どれも
「開封後要冷蔵」の表示いらずだろう。なまものも長持ちしそうだ。なるほど、この地域に100歳を越える長寿の人が何人もいるというのもうなずける。

 ……ということで、オレは
宿を変えることにした。寒いまま長寿を迎えるより、寒くなくて早死にした方がいい。それが「ノーベル寒さ苦手で賞」受賞者の生き様だっ!!
 そもそも、なぜかコショーサンホテルの壁に「村一番のホテル・ダーバーホテル現在オフシーズン割引(半額)実施中」などと他のホテルの広告が貼られているのだ。実にこの宿のオーナー・コショーサンは、エネミーにソルトを送ることが出来る人格者である。お詫びを兼ねてコショーサンに挨拶に行ったところ、「気にしないでください。あなたが高いホテルに泊まることは、この村全体の経済のためにとても良いことです」と
イエス・キリストでも「その発言何か裏があるんじゃないか?」と勘繰りそうな、インド人の宿のオーナーを1万人連れて来ても絶対に出てこなそうな神々しいことを言ってくだすった。
 コショーサマ。今日からあなたはコショーサマです。そしてこの宿は、
コショーサマホテルです。

 さあて、見送りご苦労デニーちゃん
 少しだけ丘を登ったところにあるフンザ随一の(といってもせいぜいシーズン中でも3000円くらいなのでたかが知れている)宿であるダーバーホテル、その随一のホテルが現在は1泊500ルピー、800円程度で宿泊可能だ。

 下がコショーサマホテル、上に見えるのがダーバーホテルである。フンザのホテル体系をそのままピラミッド型で表しているような位置関係だ。

 他の客は一切見かけなかったが、チェックインし部屋に通されるとそこにはカーペットにソファーにカーテンという、まともなホテルにありそうな旅先ではあまり見たことが無い設備が一通り整っていた。ああ、カーペットとソファーの代用に
犬(デニーちゃん)を設置していたコショーサマホテルとはえらい違いだ。たしかにデニーちゃんは「お客さん、遠慮せずわたしに座ってください……そしてくつろいでくださいね……」とけなげな顔をしてソファーを演じていたが、さすがに悲壮感が漂いすぎてそうそうくつろげるものではなかった。
 いやー、これならば今夜は雪山で遭難の夢を見なくて済みそうだ……。美人になら何されてもいいけど、男にビンタされるのはイヤだもん……。

 バックパックの中身を一通りぶちまけてホテルの部屋に
自分の色を出した後(これは動物が縄張りを作るのと同じ意味を持つ行為である)、旅人の責務である本日の観光として隣村のアルティット村まで散歩に出かけることにした。今渋谷の若者の間で大流行中のマジカルチェンジを使い、チェーンジチェンジ、マジカルチェンジ♪と歌いながらアルティット村という字を一文字変えるとアルティメット村になるので、なにやら究極の村という感じだ。……なんかこの気温のせいで、傑作ギャグも寒く感じる。
 山道をあっちに行ったりこっちに行ったりくねりながら上ったり下りたりし、うーんこれは、20年ほど前に買ってもらった、プラスチックのボールをうまく操作する
あくま島脱出ゲームの駒になった気分だ、などと思いながら1時間近く歩くと、山の斜面に沿ってカクカクとコンクリートの家が並ぶ小さな村に出た。……あんなおもちゃでも、当時は楽しかったのだよなあ。物心ついた時にいきなりバイオハザードがある今の子供たちは幸せだが、その分あくま島脱出ゲームで何ヶ月も遊び続ける想像力はおまえらにはあるまい。

 究極の村とはいえ
究極にしばれるだけで後はあくまでもただの村であり、別にここに何か見るべきものがあるわけではないのだが、とりあえず雪山を眺めながら四角い家の間をぬってフロでも覗けないかなとちょこまか歩いていると、下の家の入り口から上品そうなおばさんが出てきてオレに向かって何か呼びかけている。
 なんだろう。また韓流スターと間違えられてしまったのだろうか?? まいったな〜、
もう今年に入ってこれで148回目だよ。


「おばさんこんにちは! たしかに僕はクォン・サンウのいとこです。すみません庭先にお邪魔してしまって。僕はこんな変質者の目をしていますが、けっしておフロを覗こうとしているわけではありません」


「ハロー。ユー、カム、マイハウス?」


「はい?」


「カム! マイハウス!」


「え、あの、家に招いてくれるのですか??」


「イエス。カムカム!」


「……」


 あら〜。
 親切にありがとうございます。でもおばさん、僕は、
人の家に招かれるのは基本的に苦手としているのですが。見ず知らずの外国の人とコミュニケーションを図るのはとても精神的に負担になるので、1ヶ月に1回(十分睡眠を摂った日に限る)と決めているのですが。
 しかしなあ、ここでおばさんの誘いを断ってしまっては、ここのところ
赤丸急上昇中のオレのイメージが若干乱れる可能性があるよな。最近ようやく、おばさんの年代からの人気は船越英一郎と人気を2分するところまで持って来たのだから、ここはありがたくお招きにあずかるか……。

 家にお邪魔すると、おばさんの他におじいさんとおばあさん、やっと直立し出したくらいの年齢の子供が3人いた。すぐにおばあさんは火を焚いてくれ、部屋の中央の囲炉裏に結構な火の手が上がった。それを囲んで座るとみんな歓迎ムードでオレに話しかけてくれるのだが、
ブリシャスキー語というフンザ特有の言語なため一切理解できん。
 ああ、旅立つ前からフンザに行くことはわかっていたんだから、
NOVAのブリシャスキー語のクラスにでも通っておけばよかった……。教育訓練給付金が適用になっていたうちに。それにしても、おそらくイルカだったら太平洋のイルカとインド洋のイルカでも言葉を使って意思疎通ができるだろうに、より高度な知能を持つ人間同士で全く会話が通じないとはどういうことだ。

 メラメラと炎が燃え盛っているところ、オレが鼻をすすっているとおばあさんが
「あんた! 鼻を火にあてて暖めなさい!!」とブリシャスキー語+ジェスチャーで命令してきた。はいはい、と言いつつ顔を火に近づけてみたのだが、パチパチ火の粉を振りまいており非情に熱い。


「もっと! もっと近づけなさい!! もっと火にあたりなさい!!」


「ええっ……も、もっとですか……」


 じりじり……じりじり……


「あ、熱いな。ちょっともうこれ以上は……」


「ほら! ダメだって! ちゃんと火に近づけて! 火の近くで温めなさい!!」


「い、いや、あの、ちょっと……」


 じりじり……じりじり……

 
ぬお〜〜っ、顔が焼けるっ!! あぶられるっ!! 照り焼き作者にする気かっ!! 熱い!!!


「コラ!! なに離してるんだ!! 火にあたらないと悪いところが治らないだろう!!」



「か、勘弁してください(涙)。まつ毛が焼けそうです。焚き火と一緒に髪も燃え上がりそうです」


「あんたその前髪!! なんでそんなに髪が長いんダ!! ほら、こうやって、目に刺さるじゃろうが!! 前髪を切りなさい! 目に刺さって危ないジャロ!!!」


 スパルタおばあさんは、例によって
ブリシャスキー語で激しくせっつきながら、前髪を掴んで目に突き刺す仕草をして、オレに前髪を切れと命令してきた。そんな、目に刺さるっておばあちゃん……たしかに時々眼球に突然つき刺さって「イデーーー(号泣)!!!」と絶叫することはあるけど、でも日本人って今時みんな前髪長いんですよ。そういう文化なんです。ほら、歌舞伎町のホストだって、ゲゲゲの鬼太郎だって長いでしょう? この前髪のおかげで、髪の毛を飛ばす毛針攻撃とかも出来るんですから。だからこそ自分の目に刺さるととてつもないダメージなんだけど。

 なんやかやおばあさんにイジめられている間に火の上ではチャイが作られ、おじいさんが大き目のマグカップになみなみと注いでオレの前に置いてくれた。あははら。家庭の味のチャイはとっても美味しいざんす。やっぱりお店ではなく、お招きにあずかっていただくとまた特別な味ですねえ。
 あぱーーーーー。
 あー美味しかった。飲んだ飲んだ。ごちそうさまでした。

 コポコポコポコポコポコポコポコポ(おじいさんが目いっぱいチャイを注いでくれる音)……


 ……。

 あの。
 そんな絶好調に満タンにしていただかなくても。もうだいぶ腹に溜まってるんです。ああ、でもありがとうおじいさん。
 目の前には、いつの間にか大皿にもてなしのチャパティがたくさん盛られている。みんなありがとうございます〜こんなオレなんかのために〜〜ああ〜〜〜でも〜〜〜〜僕〜〜、
食が細くてそんなに食べられないんです(涙)。もうチャイだけでお腹がパンパンになっちゃっていますし。チャパティだけでおかずもないみたいですし。そんな、素敵な歓迎、温かいもてなし、ありがたいですでも食べられません〜〜(号泣)。高級ピーナッツクリームはないのでしょうか……?
 しかし最低1枚は食べきらないと自分の中で感謝のノルマを達成しないため、チャパティを少しずつ千切ってチャイに浸し、喉を通り易くして食べた(これは小学生時代給食のパンが食べられない時に開発した作戦だ)
 そして、結果遂にチャイも飲みきった。マグカップ満タン2杯分、死ぬ思いで胃に流し込んだ。やっとこさカップを空にできたぞ……ああ、苦しい……でもやり遂げた……。

 コポコポコポコポコポコポコポコポ(おじいさんが目いっぱいチャイを注いでくれる音)……



 ……。




 
わんこそばか?

 あのお、そのもてなしてくださるおじいさんの心はとても美しいですが、モリモリに注がれたチャイを3杯連続で飲むのは
人体構造上難しいということまで考えてくださらないのでしょうか(涙)。1杯目でもう大満足しているのに、2杯目の投入で自分の中で飽和状態になり、3杯目はもう無理です。三國無双シリーズで言えば、1杯目が三國無双4、2杯目が三國無双4猛将伝、3杯目が三國無双4Empiresのようなものです。
 オレは途中で「おじいさんっ!! ごめんなさい、ソーリーもう飲めません!! もう注がないでください!」と慌ててお断りしてみたところ、
「なにを言うかっ!!」ブルシャスキー語で怒鳴られた。そして継ぎ足しを阻止しようとしたオレの手はピシャリと払いのけられ、無理やりカップは満タンになった。
 どういうこと(号泣)?


「さあ、食え食え! たんまりチャパティがあるんだから。若いんだから遠慮するんじゃないよ!」


「そうじゃい! もっとチャパティを取って! ほら、自分の皿に持っていって!!」



「あがが……おじいさん、おばあさん、そんなに僕を責めないでください(泣)。そんなに胃が大きくないんです。虚弱体質なんです(号泣)」


「こりゃ!! 若者がたくさんメシを食ってがんばらないでどうするんだ! 世の中を支えていくのはおまえたちなんだぞ!」


「そうじゃい! もっと食え! もっと!」



「もうムリでーす(涙)。これ以上入りませーん(号泣)」



 ……。
 ああ、みっともないよ。
そうだよ。情けないよ。
 昔から近所のおばさんたちの、田舎のおじいちゃんおばあちゃんの、
「さあ、遠慮せずたくさん食べなさいね!」という善意の期待に応えられずに、人々の好意を踏みにじってのうのうと生きてきたよ。大学の部活の合宿ではおかわり3杯が必須で、みんなが食卓を片付けている間も1人でちょぼちょぼと食べ続けていたよ。先輩がいなくなったら優しい同輩に食べてもらったよ。
 しかし、
そりゃオレのせいか? すぐ満腹に、なってしまうんだからしょうが無いじゃないか!! 背が高い人もいれば低い人もいる、同じように、生まれつき胃が小さな人間だっているんだ。背が小さい人を、背が小さいからってこんなにブルシャスキー語で責めやしないだろう。胃が小さいということだって体の特徴の問題なのに、それなのに、なぜ食が細い場合のみこんなにおじいさんおばあさんに迫られなければいけないんだ。ってなんか持ってきた!! おばさんがまた台所からなんか食材を!!!

 それを見て、おじいさん、おばあさんが急に誇らしげな顔になった。……わかる。その表情だけでわかる。あなたたち、心の中で
こう言ってますね? 

「日本人めー、チャパティは不味くて食べられないだと!? ああ、たしかにパキスタンは発展途上国じゃよ。日本と比べたら美味しい食べ物も無いかもしれん。でもな、チャパティごときでパキスタンの食事を判断されちゃ困るんじゃ。パキスタンが発展途上国だとかメシが不味いだとか、そういうことは、
これを食べてから言ってみな!!

と……。

 本来、この食材が
登場する予定は無かったはずだ。しかしオレがチャパティをあまりにも食べないんで、満腹ではなくただ単にチャパティが口に合わないと思われたのであろう。それならばと、仰々しく容器に保管された、うやうやしくおばさんが奥から出してきた秘密兵器、オレの目の前の皿にはおそらくこの家の家宝であると思われる、ドロドロとしたチーズが丁寧に盛られたのである。

 ……。

 ありがとう(泣)。
 とっても嬉しいです。感激です。そこまでしていただいて。
 もうお腹がいっぱいなんだけど、せっかく出してきていただいたんだから、まあ食べますよ。さすがにこれを断ったら人類愛を語る資格はありませんよ。ここまでしてもらってるんだから。ありがたく頂戴いたします。ええ食べます。心から味わって食べますとも。おばさん、おじいさん、おばあさん、本当に気を使っていただいてありがとうござい
マズーーーーーーっっ!!! なんじゃあこりゃあっ(涙)!! ぐぁぇっ!! 口がっ! 口が曲がる〜〜〜っっ(号泣)!!

 もうなんだかよくわからないが、チーズをひと口食った途端オレは
口が痺れた。
 どんな年代物なのか知らないが、
臭みと苦味がお互いを引き立てあい、絶妙な不味さを演出している。これはきっとグルメを極めた大人の中の大人の人たちには高級品でぜいたく品なのであろう。しかし、オレのような低級志向の人間にとってこれは劇物扱いだ。
 なんとか苦悶の表情を押し殺して必死に
自分の弱い心と戦っていると、オレの涙目を見てフンザ住民の方々は「どうだい! パキスタンにだってこういう涙ちょちょぎれるほど美味しいものがあるんだよ!! 少しは見直したかい! そして今までパキスタンをバカにしていたことを反省したかい!!」という勝利の色をありありと表情に出している。別にバカにしてないのに(涙)。なおかつ、隣でオレを見ているお子様たちは「いいなあこの外人さん。いちげんさんのくせにお宝チーズを食べられて。ぼくらなんてチーズが入っている戸棚に近づくだけでどやされるのに」と実に物ほしそうで恨めしそうである。

 あああ、どうしよう。おばさんたちは、オレなんかのためにお宝を出してくれたんだ。このことによって彼らの家の経済が傾くかもしれないというのに。彼らの善意に応えるためにも、ここは死を覚悟して食べなきゃいけないんじゃないか。いや! むしろそんな大事なお宝チーズを、ただの旅行者がしかも苦しみながら無理やり食べるなんて、その方が失礼ではないのか。食べるのも失礼、残すのも失礼。ならば、いったいオレはどうすればいいんだ(号泣)。
 くそー、こんなことならばお招きいただいた時に丁重に辞退していればよかった……。ひょこひょこ何も考えずに上がらせてもらったばっかりに、こんな
妻子持ちの上司を愛してしまったOLに匹敵するくらいの悩みに襲われることになったのだ。できることならちょっと時間を止めて、チーズを食べるべきか食べざるべきかこの悩みを大泉の母にでも相談に行きたい。たくさんの人間の苦しみを見てきた大泉の母ならば、きっと「そんなくだらねえことで来るんじゃねえよこのガキ!!」ぶちキレることだろう。

 ……。

 長い葛藤が繰り返された……。

 オレは、
丁重に謝罪し、本当にお腹がいっぱいでもう食べられないんですということを、ブルシャスキー語では言えなかったのでボディランゲージを駆使して饒舌に熱情的に語った。別にバラエティ番組に参加しているわけでもないのに……。
 だが、目と体は口ほどに物を言う。どうやら、決死の思いはおじいさんおばあさんおばさん子供たちにも受け止めてもらえたようで、遂に目の前のお宝チーズは、
再びうやうやしく容器にしまわれて台所に帰って行った。

 ……いいんだ。あのチーズは、オレなんかが食べちゃいけないものなんだ。あれは、毎日一生懸命労働をしている人がこそ食べてよいものなんだ。こんなネガティブがパンツを履いて歩いているようなオレには、お宝を食べる資格なんてないのさ。
お宝動画をダウンロードしてるだけで満足しなければいけないのさ。
 アルティット村の一家のみなさまに非情な感謝をしつつ、オレは夜店で売っているヨーヨーのように膨らんだ腹をチャップンチャップン言わせながら、1人山道を帰った。空にはフンザに来て初めて見る太陽が、しかし既に雲と雪山の西の果てに沈もうとしていた。チャップンチャップン。


アルティメットなおじいさんとダブル息子



 夕暮れのお店。







今日の一冊は、依頼人を救え―不安社会の深層






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