THE FIGHT ROUND29

〜命の水(ORS)〜



 高熱と下痢は数日間続いた。
 インドで体を壊すことは、秋の改変期のプロ野球珍プレー好プレー(司会は島田紳助 )のように恒例のイベントとはいえ、明らかに日に日に衰弱し、一歩一歩黄泉の世界へ近づいている。
 唯一の気力の支えだったMさんからのメールは、今日は「きっとコレラかチフスか赤痢じゃないの? 死にゃーしないんじゃない? 多分」という、旅先で死にかけてる人間にとってとても励まされる内容のものだった。
 支えだと思ってよりかかっていた杖に殴打されたような感覚に陥ったオレ。こうなったらもう頼れるものは自分一人。自力でなんとかしなければならない。もはや「あ、そうだ。旅行記書く時『ニューデリーでニュー下痢ー』とか書いちゃおー」とか考えてニヤニヤしている場合ではないのだ。
 今後の予定として、まず砂漠地帯の都市ジャイプル、そしてなんといってもタージ・マハルを見にアーグラへ行かなければならない。はるばるインドまで来て病気になり、人類の至宝であるタージも見ずに帰るのでは、この旅はマネーの虎の吉田栄作くらい意味の無いものだったということになってしまう。
 チフ・・じゃなくてただの熱と下痢を治すにはどうすればいいか。購入するメトロカードの図柄を選ぶ時の1億倍くらい真剣に悩んでいたオレは、地球の歩き方の「旅のトラブル・豆情報」にふと目をとめた。以下引用。

脱水症状を防ぐ命の水、経口補水塩(ORS)
インドでお腹をこわした時、インド人の友人が水に砂糖と塩を溶かしたものを持って来てくれた。下痢にはこれがよく効くそうだ。(久美子 栃木県 ’98)
これはORS(経口補水塩)といって、体が吸収しやすい状態に調合した水、いわば即席スポーツドリンクだ。脱水症状を防ぐのにたいへん効果がある。作り方は、1リットルの水に対して砂糖小さじ4杯、塩小さじ半分の割合で混ぜるだけ。厳密でなくてもいいが、この割合が最も吸収がいい。 ユニセフなどの活動でも使われており、ORSによって大勢の子供の命が救われている。非常に安価で、手軽で、効果の高い「命の水」。ぜひこの割合を覚えておこう。(編集室)』


 こ、これだ!
 大勢の子供の命も救われている、手軽で効果の高い命の水。栃木の久美子さんもこのように言っていることだし、今ここでまた一人の日本人の命も救ってもらおうじゃないか! なになに? ぜひこの割合を覚えておこうだって?
 よーし。暗記ならまかせろ。
 水1リットルに対して、砂糖小さじ4杯、塩小さじ半分。
 水1リットルに対して、砂糖小さじ4杯、塩小さじ半分。
 水1リットルに小さじで砂糖4、塩1/2杯。
 よし! 完璧に覚えたぜっっ!!!

 ……。

 っていうか、地球の歩き方を持参してるんだから、別に覚える必要なんてないのでは? まあいいや。

 あのー。
 ところで、覚えたのはいいんですけど、砂糖と塩はどこに? そして小さじはどこに?

 ……。


 小さじを持ち歩いているバックパッカーがいるかーっ!

 どうやって用意するんだよそんなもん! 小さじなんてインドに売ってるのか? 何屋に買いに行けばいいんだろう。この弱った状態で下手にバザールに買い物に出たりしたら、民族衣装や楽器、ガンジャーやシルクなどインドの土産物を一通り買わされたあげく、気付いたら旅行会社の組んだツアーに参加している なんてことになるに違いない。おおかたジャイプルに向かう途中の車の中で息絶えて、チリ人妻アニータさんの旦那のように砂漠に投げ捨てられるのがオチだろう。 大体2本足で歩ける状態じゃないよ。何日もの間水飲んでも全部下から出て行ってる上に高熱にうなされてるんだから。
 こうなったら、残された手段はこれしかない。
 宿の人に頼む!
 観光客を相手に宿をやっている以上、宿泊客には親切なはずだ。とりあえず言うことをまとめていこう。こんな感じかな。↓

「すいません、ひどい下痢になって熱も下がらないんで、脱水症状に効くっていう経口補水塩(ORS)を作るために小さじ4杯分の砂糖と小さじ半分の塩をください」

 うーむ……。

 そんな難しい英語知らねー(T_T)。
 とりあえず下痢は単語帳に書いてあったな。
 ↓

「下痢=diarrhea」

 ……読めねー(T_T)。しかしとりあえず助けを求めないとどうにもならない。部屋を出て、フロントへ向かう。下痢なんて単語は中学でも高校でも習わなかった大学ではどうだったか不明が、よく考えてみればこんな単語こそ真っ先に学ばなきゃいけないんじゃないか?
 フロント前のソファーで会長のような風格のインド人のおっさんが新聞を読んでいた。偉そうな態度からしてこのホテル(っていうか宿)で一番偉い人だろう。そんな彼が、死神に後ろから魂を半分抜かれているオレを見るなり何かを察し、


「オイ! どうしたんだ!? とにかくここに座れよ」


「おおううう……あうあう」


「大丈夫か? 電波少年にでも出演中なのか?」


「あうあう……ね、熱……あと、こ、これ……」


「ん?なになに? diarrhea! 下痢か!」


「ああああう〜(涙)。あうあう、あうあう」


「うーん、ガイドブック見せられてもオレ日本語は読めないからな……。わかった。一緒に来るんだ」


 そういうと会長は、スタスタとホテルの外に出て行った。会長について外に出るととても2月とは思えない強さで照りつける陽光と、一斉にこちらを見るインド人の視線にやられて思わず吐きそうになる。目の前にはニューデリーのバザールが広がっている。ここが日本だったらどんなに気が楽だろうか。 まあそうは言っても、原因不明の腹痛で病院に駆け込んだら外国人の医者に「腹を開けて中を見てみないとなんとも言えない」などと言われ、実際に腹を開けられた前回の旅を思い起こせばたいしたことない。のか……。
 会長は、バザールの中のとある一軒の店に入って行った。周りの賑やかな店とは若干異なる清潔な雰囲気、白衣を着た従業員。こ、このたたずまいは……
 薬屋だ!
 会長〜(泣)


「おい、さっきの本を彼に見せてみな。」


「ああ……あうあう〜……」


店員「ん?なになに?ああ。ORSか。ORSが欲しいんだな?」


「おお!!!!あああああああああううううううう〜〜〜〜〜〜(号泣)」


店員「よーし、じゃあこれを2袋、水に混ぜて飲むんだ。あと、これは下痢止めな。」


「よよよよ(泣)」


 なんと、驚くことにインドの(日本ではどうか不明)薬局には、水に溶かすだけでORSができるORS用の粉が売られていたのだ。そしてインドの下痢用の薬も手に入れた。実はちゃんと正露丸は持参していたのだが、インドの下痢に日本の薬は富樫源次の大豪院邪鬼への攻撃のごとく全く効かないらしい。
 というか、実際効かなかった。だがこれで一気に光が見えてきた!
 宿に帰ったオレは、早速ペットボトルの水にORSの粉を入れ最期最後の力を振り絞ってシャカシャカと振り、薬と一緒に一気に飲んだ。そしてまたベッドに倒れこむと、すぐに意識を失った。







 う…








 うう〜











 深い眠りの中で、オレは今日までの旅で出会った親切なインド人達の夢を見ていた。
 デリーで知り合った、雑誌記者のビル。彼は初対面のオレを、わざわざ自分の家に招待してくれた。最高にフレンドリーで、親切な奴だった。
 そして、デリーで知り合った、雑誌記者のビル。彼に紹介された日本人の女性は、オレに色々なことを考えるきっかけを与えてくれた。彼女は、これからも旦那さんと可愛い子供と、3人でインドで生きていくのだろう。
 そして、デリーで知り合った、雑誌記者のビル。最初に彼を疑ったことを、本当に恥ずかしく思う。またインドに来る事があったら、きっともう一度会ってゆっくり話がしたい。
 そして、デリーで知り合った……ちょっと待て。親切なインド人達と言っておきながら一人の夢しか見ないのは失礼ではないか。というか、そもそも雑誌記者のビルの話は本に載せるためサイトではカットしてしまった。最近この旅行記を読み始めた人にはなんのことやらわからないではないか。
 よし、がんばって他のインド人のことも思い出すんだ……。
 ニューデリー駅でオレが切符を買うのを阻んだおっさん達。デリーでオレを監禁した旅行会社のおっさん達。バラナシのガートでひたすら土産を買わせようとする物売りのおっさん達。サイババの名を語り無難なコメントで荒稼ぎをたくらむおっさん達。そして目的地に辿りつかないインドの足・リクシャのおっさん達。



「ヘーイ! チケット売り場は今日は休みだ!」


「ツアーはどうだ? たったの900ドルだぜ!」


「このシルクはどうだ? ノーたかい、ベリーチープねー」


「ヘーイどこ行くんだ! オレがベリーグッドな宿に連れてってやるぞ!」


「ヘーイジャパニーズ!」


「ジャパニーズ! フレンド!」


「20ルピー! 10ルピー! 5ルピー! 10ルピー! 10ルピー! 10ルピー! 10ルピー! 10ルピー! 10ルピー! 10ルピー! 10ルピー! 10ルピー! 10ルピー!10ルピー! 10ルピー! 10ルピー! 10ルピー! 10ルピー! 10ルピー! 10ルピー! 10ルピー!」














 ……。

















 やめろおぉぉぉぉっ!!








 ガバッ←起きた


 はあっ、はあっ……。

 あ、あれ? もう朝か……。大分長い時間寝てたみたいだな。しかしムカツく夢だった。


 そういえば昨日会長に連れられて薬屋に行ったんだっけ。下痢止めとORSを飲んで寝たんだよな。ORSは吸収がいいって聞いたけど、どうかな。インドの下痢にはインドの薬が効くらしいけど、どうかな。
 さて、体の具合はどうだ。少しは良くなったか?


 ん?


 そういえば、オレうめき声出してないな。
 気持ち悪さもなくなってる……。

 腹は?

 ……。

 音が。絶え間なく鳴っていた腹のゴロゴロ言う音が消えている!!
 これは、これはもしかして!

 そうだ。熱も下がっている。目まいもしない。頭がスッキリしている。腹の痛みも消えている。歩いてもトイレに行きたくならない。ちょっとエッチなことを想像しただけでビンビンになる。
 これは……


 これは……




 治ってる!!







 治ったぞ〜〜っ!!






 会長! 薬屋の店員さん! 宿の客引きのにーちゃん! コンスタンチン君! 
 オレは治った! 治ったんだっ!!!

 そしてよく頑張ったオレ! ありがとう地球の歩き方! ありがとうORS!! まさしく命の水だ。本当にオレの命も救ってくれようとは! おや?

 ゴロゴロロゴリョリョロロ……

 はっはっは。もうその程度のゴロゴロ痛くも痒くもないぜ! もはや何者もこのオレの行く手を遮ることは出来ぬのだ!
 さあこれでまた放浪の旅の復活だ。よし、行くぜジャイプル! 待ってろタージマハ―ル! 早速バスのチケットをゲットしに行くぜ!!


「ナマステ―。おーい、ジャパニーズボーイ。どうだ。体は良くなったのか?」


「会長! ナマステー!! 昨日はありがとー!! おかげでもうこの通りさ! おまけに、ハッ! この通りさ! さらに、ドリャアーッ!! この通りさっ!!」


「ワオ! 凄いな。でもそりゃよかった。今日はどうするんだ? どっか行くのか?」


「ああ。明日ジャイプルに行こうと思うんで、ハチャ〜ッ、アチョアーッッ!! バスの予約をしに行くのさ!」


「なんだ。ジャイプルか。それならわざわざバススタンドまで行かなくても、ここからデラックスバスが出ているぞ」


「へ? ここから?」


「そうだ。ベリーベリーデラックスバスだ。病明けで普通のバスじゃあ辛いだろう。明日の朝6時発のもあるぞ。どうだ?ここで予約していけよ」


「そうだな。会長には世話になったし、そうするか。じゃあ予約するよ。よろしく!」


 瀕死のオレを助けてくれた恩もある。ちょっと贅沢になってしまうが、会長に免じてここのデラックスバスを予約することにしよう。
 いよいよ明日ジャイプルに出発だ!


 会長万歳!
 薬屋万歳!
 命の水万歳!










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