〜ボンベイ〜 
1ルピー≒2.5円





 喉が……喉がいだい゙〜〜グゴガ〜〜(涙)。
 黄金寺院の質素な宿泊施設のベッドで目を覚ましてみると、オレの喉はツバを飲み込む度にきゅううううう〜〜〜〜〜と絞られるような、
真冬の越前海岸のような激しい荒れ具合を見せていた。なんだか喉の空間がものすごく狭くなったような、喉の中で玉突き事故が起きて片側1車線通行止めにでもなっているかのような窮屈さだ。この喉の狭さでは、ビッグカメラでプレイステーション3の本体を目にして欲しくてたまらなくなっても、いつもと違って喉から手が出ることは無いだろう。出てくるとしても、せいぜい孫の手程度だと思われる。
 にしても、喉が荒れると本当に何もかもやる気がなくなる。せっかく人が帰国したら真面目に就職活動をしようとしていたのに、もうこの喉の荒れのせいで完全にやる気がなくなった。
司法試験や野菜ソムリエの検定にもチャレンジする予定だったのに、この喉のせいで全て白紙に戻った。くそ、許せない。オレの喉、許せないっ!! 喉めっ!! おまえなんかこうしてやるっっ(首を絞める)!!!! ぐええ〜〜〜〜死ぬ〜〜〜〜〜(涙)!!!

 どうしよう……今日の電車で南下しようと思っていたのに、こんな喉では動くことが出来ないではないか……。
 まあ、これを読んでいる人の中には、このように喉が痛いくらいで弱音を吐いているオレに対し
「なにを喉くらいで!」と思われる方もいらっしゃるであろう。その気持ちはわからないでもない。たしかにオレ自信、もし自分ではなく他の誰かが「今ちょっと喉をこわしちゃってすごく苦しいんですよ。何もやる気が起きないんです」と言っていたら、形式的にはお見舞いの言葉をかけながらも心の中では「なにを喉くらいで……」とつぶやくだろう。なので、この際オレも自分に向かって「なにを喉くらいで!! そんな小さなことは気にせずに、夜行電車に乗って南インドまで長時間移動しちゃえよ!!」と説教し、移動を強行することにした。
 そして、その通り喉の痛みなど無視して21時発の夜行列車に乗り込んだオレは、
ほんの数時間後に発熱し全身を激しい倦怠感と関節の痛みに襲われ、寝台車と地獄の3丁目の狭間をさまよい呻き続けることになった。

 ぐぐ……ぐるじい……。やっぱり、
やっぱりなにを喉くらいでとか言ってる場合じゃなかった……(号泣)。
 背中が、肩が……腰が……ああ〜〜
痛い。なんも悪いことしてないのにどうして……むしろ良い行いしかしていないのに……アキバの駅で「大宮にはどうやって行けばいいのかしら?」と聞いてきたおばさんには親切に京浜東北線を案内してあげたし……新潟県中越沖地震の時には電話1本で援助が出来るドラえもん募金もしたのに……それなのにどうしてこんな目に……。これじゃあ僕、ドラえもんのこと嫌いになっちゃうよ。
 悪い物を食べたわけでもないのに、
入国しただけで体調がおかしくなったのは実にエチオピア以来である。そもそもこの旅で熱を出したのがエチオピアとインドだけだ。この2カ国にはなにか共通点があるのだろうか? うーん。たくさんあるな……。少なくとも、入国初日からその国のガキを殴りたくなったのがエチオピアとインドだけである。どうやらオレは、ガキを殴りたくなる国で発熱するらしい。言い方を変えれば、エチオピアとインドのガキは旅人を発熱させるほどの憎たらしさを持っているということだ。そしてもちろん、そのガキが憎たらしさと共に成長した結果である大人も憎たらしい。

 で、でも、明日には……きっと明日にはムンバイに着くだろうから、そしたら少し高くても構わないからちゃんとしたホテルで……ゆっくり休養を取るんだ……。そして南インドの優しさに触れるんだ……。
 この電車の行き先は、南インドへの入り口とも言えるムンバイ(旧名ボンベイ)である。見ての通り、デリーは完全に素通りする。というか既に通り過ぎた。
 なぜ首都であるデリーに一切立ち寄らず素通りしてしまうかというと、何を隠そうその理由は、
言うまでが無いだろうがっ!!!
 
たしかに、優しさという点では、デリーをはじめとした北インドでも旅行者に親しげに声をかけてくれる現地人は多い。しかし、その本物に見せかけている優しさはよく見るとほぼ全てがニセモノ。南インドの優しさをディズニーランドに例えるならば、北インドは北京のニセモノ遊園地である。真実も本物も一般道徳も何も無い。
 行くかっ! 北インドなんて行ってたまるかっっ!! 万が一来世でもう一度人間をやれることになっても、デリー在住の両親からオレが産まれそうになったら誕生を辞退するからなっっ!!!!
 この列車はもう数時間前にデリーを通過したのだが、その空気が邪悪すぎて
デリー市内を走っている間はずっと病状が悪化していたほどである。隣の州に入った途端少しだけ熱が下がったぞ。
 ……そうして、もともと寝台車で
絶対に寝られない虚弱体質のオレの体に、ダメージはどんどん蓄積されていった。

 翌朝、オレは寝台の上で
インドの路上の死体のように微動だにせず、目と口だけをカッと開いてただ転がって耐えていた。間もなく到着だとは思うが、オレの残り生命力もかなり際どい状態になっている。すると車掌らしき制服のおじさんが通ったので、オレは宙を見つめたまま、通行止めの喉から細い声を絞り出した。



「しゃ、しゃしょうさん……そこゆく車掌しゃん……」


「なんだ? ……おいおい、おまえ大丈夫か? なんか路上の死体みたいな顔してるぞ??」


「当たらずとも遠からずです……。あの、もうすぐムンバイにつきますでせうか……。ホテルで休まないと死んでしまうんです……到着時間はいつごろでせうか……」


「ムンバイへは明日の朝到着予定だから、あと24時間くらいだな」


「そうですか……そんなもんですか……」




 ……。




 
オレは死んだ。




「おいっ!! こんなところで死なれたら迷惑だっ!!! 薬とか持ってないのかよ!」


「…………」


「しばらくすれば売り子ならぬ売りおっさんも通るから、チャイでも飲んで力をつけたらどうだ」


「…………」


「おーい! お〜〜い! ……まあオレも忙しいから、じゃあな」


「…………」



 チケットを買う時、切符売り場のオヤジは到着は
だと言っていた。モーニングという単語が、たしかにハッキリと聞き取れた。スケルトンと聞いて骸骨ではなくソリに寝そべって滑走する冬季オリンピックの競技を思い浮かべる人間がほとんどいないように、夜行電車で到着がモーニングだと聞いて、誰が翌日ではなく2日後の朝を想像するであろうか(涙)??
 それも最初からわかっていたならともかく、喉の不調から発熱に至り今や乗客ではなく
クランケと呼ぶ方がしっくりくる状態で、もう着くかもう着くかと期待して、遅くとも1時間以内には到着だろうと確信していた段階でのあと24時間だ。サッカーの試合で後半ロスタイムの時点で5−0だったのに、バラエティ番組好きの審判が「次のシュートは1本で5点にします!」と宣言して1本決まって延長に突入するような、そんな予想だにしなかった続き方である。



 そして24時間後……。



 翌日の早朝、電車はインド第一の商業都市、ムンバイへ到着した。
 なんとかオレは、生きていた。
 24時間……。
 おそらくプリズンブレイクを見ながらならば、24時間など手に汗握ってあっという間に過ぎるだろう。しかし手に汗は握ってもただ空中を睨みながらの24時間というものは、
これだけ時間があれば5000万件の年金記録の照合作業も全て終わるのではないかと思われるほどの長き道のりであった。
 朝の6時。体調を崩しながら
33時間を電車の中で過ごし、もはや公共交通機関を探す気力などタンスの後ろの隙間にすらひとカケラも残っていないため、オレはすぐさまタクシーをつかまえた。
 ムンバイのタクシーは、幸いなことに料金交渉制ではなくメーター制である。ただメーターが古いものだから、表示された数字と別紙の料金表を照らし合わせて実際の金額が決まるという、少しややこしい方式を取っている。まあインドの場合タクシーに
乗る前から殺し合いに発展しそうになる事前交渉制と比べると、遥かに楽ではある。

 ということでオレはタクシーに乗り込み、ガイドブックで見つけた、やや料金の張るシーロードホテルというところに行ってもらうことにした。発車してしばらくメーターを観察していると、順調に数字を刻んでいる。よし……メーターを使っているから、これで後から高い料金をふっかけられることは無いな。さすが南、北インドとは違うな……。
 ホテルについてからオレは少し運転手に待ってもらい、一応フロントで部屋の空きだけ確認してからタクシーへ戻った。


「部屋はあったか?」


「あった。ありました。
あったよおおお(涙)。おおおおおっっ(号泣)


「それはよかった。じゃあほら、メーターの数字を確認して。この数字を料金表と照らし合わせると……220ルピーな」


「……。こ、くお、くおっ、おおっ、……



 うおおお〜〜〜っっ!!! 
宇尾〜〜〜〜っ!!! 魚〜〜〜〜っ!!!!

 やられた……。
 こいつ、
オレがフロントに行っている数分の間にメーターの数字を変えやがった……。
 あの距離で200ルピーを超えるなんてあり得ない。そもそもオレは駅から半分くらいの距離まではメーターと料金表をチェックしており、その時は30ルピーとか40ルピーくらいだったのだ。どう考えてももう半分で200に達するわけがない。
 だがオレのミスは、集中力を切らしてホテルに着いた時点でのメーターの数字を確認していなかったことである。この曖昧な記憶では、「さっきまで○○ルピーだっただろうが!!」という文句がつけられないのだ。メーター制ということでタクシーに乗り、メーター通りの請求が来ている。
できればおまえの金玉をニンニク絞りの器具に入れて1つずつ順番にギリギリと潰してやりたいが、しかし払うしかない。
 オレは疲れと睡眠不足と熱と体の痛みと初めての都市の不安と屈辱で気持ちの闇の底に落ちながらも、震える手で220ルピーを支払った。くそ、いいかオレ、
インドではどんな時もエニータイム油断するな。インドでは人を信用するな(悔し涙)。

 その日丸1日、オレは引き続き部屋のベッドで路上の死体のように微動だにせず、目と口だけをカッと開いてただただ転がっていた。

 ……またまた翌朝。
 痩せさらばえてはいるが、熱は下がった。喉も復活。そういえば、偶然にも今日はイースター、復活祭の日じゃないか。
イースターにあわせてオレも一緒に復活祭。うまい話もあるもんだ。(※うそです。本当は今日はイースターではありません。なんとなく書いてしまいました)
 ともあれ復活を遂げたからには、こんな600ルピーもする、そのくせホットシャワーが出ないチンケな宿に泊まっているわけにはいかない。早速チェックアウトすることにした。



「グッドモーニング。チェックアウトプリーズ」


「オーケー。600ルピーです」


「600ルピーですって、料金はチェックインの時に払ったでしょ。何言ってんの」


「あなたは昨日朝6時にチェックインしました。今は10時です」


「はい? 『チェックアウトは12時』ってこのカードにも、そこの料金表にも書いてあるだろうがよ。今10時だろう。10時は12時より前か後か、どっちだよ」


「チェックアウトは通常12時ですが、12時より前にチェックインした場合は24時間制になります。だからあなたはもう1泊分払わなければいけません」


「……」



 ここで一呼吸置いて説明しよう。
 24時間制というのは、チェックアウトの時間が決まっておらず、チェックインの24時間後をチェックアウトと定める方式である。例えば、夜の7時にチェックインした場合は、翌日の夜7時までにチェックアウトすれば1泊分の料金で済むというシステムだ。逆に朝ホテルに着いた場合はチェックアウト時間も早くなってしまうのだが、しかしそこで今回の場合だ。
 このシーロードホテルの場合は、
24時間制ではない。チェックインの時にもらったホテルのカードにも、受付にも、「チェックアウトタイム・12時」ときっちり書いてあるのだ。チェックアウトタイムが明記されているということは、つまり24時間制ではないのである。当然、その2つのシステムの悪いところだけをミックスさせたカスルールをこのホテルが定めているとはどこにも書いてないし、一切説明も受けていない。そしてフロントの女のオレを見下したような偉そうな顔。

 ……ということで、オレは
めでたくキレた。






「なめんなよこのクソアマああっ!!!! 客商売のくせにふてぶてしい態度とりやがって!! 汚ねえ仕事してるんじゃねーよオラあっっっ!!! 誰がそんなもん払うかこのタコ!!!!」


「あなたは6時にチェックインしたんです。ユー、マスト、ペイ600ルピー!」


「おいてめー、その腐った目で後ろの料金表見てみろや。どこに24時間制って書いてあるんだよ!! おまえのその淀んだ目じゃチェックアウトタイム12時ってのは見えねーのかっ!!! おまえの脳は空洞かっっっ!!!!!」


「12時チェックアウトは12時より後にチェックインした場合です。12時前にチェックインした場合は24時間制です」


「だからどこにそれが書いてあるんだよっ!!!! どこにも書いてない説明も受けてない、それどころかチェックアウトタイムがちゃんと書かれてるだろうがっっ!!!! 寝言は家に帰って寝てから言えやこのウスノロォォォ!!!!」


「じゃあマネージャーと話してください。そこの部屋にいますから。言いたいことは直接マネージャーに言ってください」



「ボケがっ!!!」




 クソ女がいる受付の後ろの部屋にはまたまた偉そうにふんぞり返った肥えたオヤジがおり、こいつがどうやらこのホテルの責任者らしい。とりあえずオレは一旦怒りを抑えて、オヤジ部屋に入り成り行きを説明してみた。
 すると状況を把握したオヤジは言った。



「ユー、マスト、ペイ、600ルピー」


「待てよオイ。おまえオレの話聞いてたか? 説明受けてないし料金表にもどこにも書いてないって言ってるだろうが。どこかに書いてあるって言うんならその注意書きを見せてみろよっ!!!!」


ノー。ユー、マストペイ600ルピー」


「ぬおおおおおおらああああああっっっ!!!!! このうすらアホどもがっ!!!!!!」



 あまりにもバカバカしいためオレはさっさとマネージャーの部屋を出て、勝手に帰ることにした。こんな掃き溜めみたいな建築物には1秒たりとも長居無用だ。
掃き溜めに鶴、シーロードホテルにオレ(特に脈絡なし)。
 受付を通ると、さっきのキモ女がしつこく食い下がってくる。



「ヘイ! ユーキャントゴー! ユーマストペイ!!」


「うるせーんだよクソっっ!!!! その客を見下した偉そうな顔見てると吐き気がしてくるんだよ!!! イランやパキスタンではこんなこと一度も無かったわっ!!!! この悪徳インド人めっっ!!!!」



 その場には警備員もいたのだが、しかしホテルを出たオレを外まで追いかけてくる奴はいなかった。
 
……外まで追いかけてこないということは、つまりやつらが不正な請求でボッタクろうとしていたということである。正規のルールで決まっている料金をオレが払わずに出てきているのなら、絶対に警備員に捕まるはずなのだ。

 ここはまだ北インドか?
 インド入りしてから最初の売店のガキ、最初の電車移動、最初のタクシーの運転手、最初のホテル。
全てにおいて膨大な気力を使わされている。
 
この国は異常だ。アホーバカー(涙)





今日の一冊は、残酷な描写がありますが 悪の教典〈上〉 (文春文庫)






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